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いつも「しあわせ」で「いなきゃ」いけない世の中なんて、ポイズン。

笑い声が、お腹の底に響く快感。

女の子だったら、コロコロ笑う方がきっとかわいい

わたしが腹の底から笑う時は低い音で、ガハハ、とか、ケタケタ、とか、女の子らしくない。

笑い声に自分で色付けようとした時点でそれは「腹の底から笑う」ではなくなってしまうので、それはそれで良しとして。

 

山々の緑から感じる、生命の息吹を背にし、大都会東京を駆け抜け、1ヶ月半ぶりに千葉にいってきた。

 

「なんかいいなぁ」と思う空気を食べられる十日町から離れると、いつも学びが多い。
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「便利が当たり前」がしあわせか、「不便を武器に変える」前向きさがしあわせか。

 

東京は、やっぱり落ち着かなかった。
アスファルトの硬さに妙に違和感があった。

 

大都会東京のメニーメニーピーポーに圧倒されながら、
赤ばかりの信号に十日町の道路の快適さを思い出す。

 

某デパートで着飾った人たちがわらわらと交差する。
ファッションを言葉巧みに売る綺麗なちゃんねぇ。
髪を金色に脱色してガニ股で歩く中高生たち。
赤いリップをこれでもかと白肌を際立たせる流行りメイク。

 

パッツン前髪から毛虫のようなものを這わせる日本人の顔の活かし方はわたしにはやっぱりよくわからない。

 

なんだか別世界にきたような気がした。
十日町の人口密度に慣れたのか、「長くはいれない」と思い、目的の店に急く。

 

田植え真っ盛りなこの季節。
自然との共同戦線が開始されている現在の十日町の風景に癒されていたこと。

 

アスファルトとビル街が当たり前の都会との落差に、私たちはテクノロジーとちゃんと手を繋げているのかよくわからなくなる。

 

人間は元来自然と共存して時代に子孫を残し続けてきたのに、東京に来ると何故だか生きた心地がしなくなる。

 

早く十日町に帰りたい気持ちが、より一層心を染める。
東京や千葉に来ると心が弱くなる。
ギュッと心が硬くなる気がする。
鳴り響くサイレンのこだまが頭に入り込んでいた。

 

インプットとアウトプットとはまだまだ仲違い

 

 千葉につき、買い物を済ませ、地元の高校時代の先輩と近況報告をしあう。
結婚生活も山あり谷ありみたいで、楽しみながらも働き方を模索している様子だったけれど、いつも心配はしない。

 

なんとかするし、なんとかなるから。
相談も聞くし、相談もする。気がむいたときに。

 

そんなユルい関係が心地よい。

 

女性同士の「グループ感」とは高校時代から疎遠だったから、カラッとした関係が好きだ。
 

お腹を満足させて、お互いの健闘を祈って手を振った。

 

そんな帰り道、ボーッと考えながら運転して実家にたどり着いた後、ドッと疲労が押し寄せ、視界がまどろみながら、日々の忙しなさに追われ、インプットしたことを言語化できていないなぁ、と思った。

 

自分の中に存在する矛盾が、もののけ姫のおっことぬしさまのように肥大化していたことに気づく。

 

地域づくりに関しての志の部分。
具体的な仕事の着手。
取材させて頂いた方たちのこと。
詰めて詰めて詰めていた。

 

インプットの量だけが蓄積され、
アウトプットに対して疲労がモヤをかけてしまっていること。

 

その矛盾に、自分をチクッと刺したりする。
肯定の中に矛盾が入ると、やはり自分に対して厳しくなってしまう。

 

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「思考は現実化する」は、イヤなことも、素晴らしいことも同じ
 

ひとつの恋愛を終えてから、自宅にいることがほとんどなく、1日を24時間に解体して、仕事を組み込ませ、なんとも極端なライフスタイルを「自分で選んで」「忙殺」しようと企てている自分に「またか」とため息をつく。

 

時間の余白を「心地よい」にできないこと。
「ひとり」を感じたくないために、時間を駆け抜けること。

 

ふと目線を変えると車内のカーナビでお笑いのいとうあさこ氏が「孤独なれしろよッ!」という言葉を発していて、なぜだかどこかで見られているような気がした。

 

そんなドキリとした心情に、わらけてくる。
わたしは「孤独なれ」がいつまでも卒業できない。

 

仕事を根詰めるクセが出てくる時は、そんな弱い自分を直視できてないとき。

 

こんなマイナス面を掘り下げている時は決まってチクリチクリとする出来事が連鎖する。

 

24年の歳月を重ねた今、出来事はいつだって心のめがねに左右されるのだと痛い程わかってきた。
思考の現実化というやつの自己啓発本の類も何度となく読み漁ってきた。
今自己啓発本をあまり読まなくなったのは、アウトプットをインプットに比例させたかったから。 
 

マイナスなことを考えていると、イヤな出来事も引き寄せる必然。
いつもハッピーでいられるわけではないと思う夜だった。

 

だけどなるたけ、心のめがねはぶれないようには意識しなければと踏ん張る。
「楽」の文字がいろんな言葉と混ざり合う、心地よい時間の割合を多くするため。

 

 

本来の自分を偽りなく発信すると「”ちゃんと”嫌われる」

 

インターネットがこれだけ普及した時代でメンタル面を発信媒体に体現化するのは、自分の軸を自分で支える支柱を作る必要がある。

 

Facebookのイイね!の数
投稿内容の賛否

 

それらに振り回される自分がいると、「本質からズレてるなぁ」と疲れてきたりする。

 

イイね!が主軸ではないし、賛否の「否の正義」のスポットライトはやけに眩しくて目がチカチカする。

 

ブログをやっていると、たまに心ないコメントも頂いたりする。
人の不幸に敏感な人が、実家に「心配」と称した「おせっかい」をして、一問着あったりもした。 

それだけ、Facebookやブログを読んでくれている方がいらっしゃることを忘れてはいけない。 

情報リテラシーの意味でももちろん。

 

常に言葉には気をつけるように心を込めてブログを書いているけれど、たまに指摘をいただいたりして、クヨクヨしたりして。

 

「おまえはそれでも発信し続けるのか?」と自分に何度も問うたりする。

 

それでも答えはいつだって「イエス」でしかないのは、好きな人たちの顔ぶれが思い浮かぶから。 

「こんなに素敵な人、コト、モノたちを一人でも多くの人に伝えたい」という、原動力が尽きることがないから。

 

自分のアウトプットの形に誇りを持ちたいから。

 

誇りを持ってからアウトプットするのではなく、アウトプットして紆余曲折ありながら少しずつ誇りや自信を肥やしていく。

 

そんな仕組みは、味をしめるとやめられなくなる。
「行動」するのはおもしろいって、出来事に遭遇するたびに脳にインスリンがぶわーっと広がる。 

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匿名性は人を弱くも強くもする、心を丸裸にするツール

 

Facebookは「匿名性」が皆無だから、炎上しにくい。

 

人は「匿名性」の仮面をかぶると心の弱い部分が変化して、攻撃的になったりする。
(ヤフーニュースのコメント欄とかこわすぎます)

 

SNSはしあわせになる「フリ」が得意になると、誰かが名言を言っていたけれど、本当にその通りで。

 

ある意味ではそれを「強さ」と呼ぶかもしれないし、
ある意味ではそれを「虚勢」と呼ぶかもしれない。

 

わたしたちは、そんな物事の両面の意味を見据えて、オセロゲームがひっくり返らないように、自分なりの白と黒の意味を見つける必要がある。

 

白だ、黒だ、と正義を振りかざすのは簡単だけれど、両面を見ながら物事を導き出すのは、ある程度の冷静さと、器量がいる。

 

自分は白だと信じていても、黒だという人はごまんといて。

 

黒も存在していいし、
グレーだっていい。

 

信じ込んだものの裏側を否定しない自分でありたい。
これだけは、絶対にブれない軸にしようと思っている。

 

誰かのためじゃなくて、「自分が」やわらかく、自由でありたいから。

 

居心地の良い十日町から離れることで見える魅力。

 

十日町から離れるたびに、十日町の良さがどんどんと見えてくる。
十日町に定住することだけが、十日町の愛し方ではなく、いろんな十日町の愛し方がある。

 

「こんななにもないところはいやだ。」と、

 

十日町から離れた若者。
これから離れる若者。

 

彼らは際限ない希望だと思う。

 

「あそこにはたくさんあったんだ」って気づく人もいれば
「やっぱりあんなとこ出て行ってよかった」と思う人、どちらも正解であって。

 

これからの十日町にはUターンの人の流動と移住者が起こす旋風はとてもスパイシー。

 

外(都会)の視点と中(十日町)の視点の重なる部分を、Uターンの人は鋭く見つけられるし、 

古と新を調和できるのがIターンの人の得意分野。

 

Uターンの人は、「地元に帰る」ことの少しばかりの違和感や抵抗もあるし、
Iターンの人は、「土地、人を知る」のに時間がかかるという側面もある。

 

今の十日町がおもしろいのは、そんなスパイシーな風をやわらかく包み込む、
土地に根を張っている人たちの「地元愛」の三つが混ざり合っていること。

 

最後に

 

わたしは正直、実家が未だに苦手です。
また、千葉では苦しい思い出が頭をよぎることも多くて疲れてしまったりします。

 

けれど新潟に住んでいるからといって、「逃げる」ような向き合い方は嫌だなあと思っていて。 

なんだかんだと時間が作ることができなかったのと、気に入った花がなかったこともあって、 

母の日に郵送できなかったあじさいが、ずっと心の奥底で霞んでいたこともあり。

 

わたしが新潟に来てから、母の体調は悪くなる一方だという気がかりなこともあったり。
十日町から千葉にいざとなったら帰れるんだという自信もつけておきたかったり。
書類を取りに行きたかったというのももちろんあったり。笑

 

津田沼駅(地元の駅)で買った、気に入ったあじさいを渡したら、やっぱりうれしそうだった。 

実家の滞在は睡眠含め、9時間。
1時間ほどしか話ししていません。

 

けれど、まあ、愚痴ばかりを聞くことや、やせ細っていく母を見るのはちょっとしんどいからこのくらいがちょうどいいかもしれない。

 

「十日町から離れて、十日町の良さを見つめ直す」を定期的に感じたいと思うので、これからも十日町に住みながら、いろいろな土地に足を運びたい。

 

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吾輩は恋愛と仕事のバランスがとれない系女子である。

人肌は、思考を麻痺させるときがある。

あたたかいひだまりのような匂いがするときもある。

そのあたたかさを失う恐怖を覚えるときがある。

 

わたくしごととなりますが、

移住前におつきあいしていた方とお別れする道を選びました。

 

ここ最近からだの不調も続き、

仕事も上の空が続き、

それでも止まらない思考回路と

やりたいことの実現のために、ひた走り。

 

時間の使い方がよくわからなくなってしまって、

恋愛より仕事が大事で大事で仕方なくって、

仕事を優先することにしました。

 

でも、これは、きっと、後付けの理由で。

何かと何かを天秤にかけること自体、わたしはまだまだ未熟者。

 

ほんとは、全然自分に余裕がなかったせい。

それを仕事と時間のせいにしているだけ。

 

移住前に支えてくれたこと

移住してからもこころのどこかで寄りかかる場所をくれたこと

彼のおかげでたくさんの人に出会わせてくれたこと

思い出したら、ありがたいことだらけで。

勝手なわがままで、とても傷つけてしまった。

 

これからの生活がひとりぽっちになった気分になったりして、

今手に持ってる仕事をやろうと思っても、砂時計の砂のように、落ちていく。

 

 

仕事優先人間ゆえに、恋愛はすごく不器用になってしまった。

OLの女の子のように、土日は彼とディズニーランド・・・なんて、いいなあ、と普通の女の子が羨ましくもなったりするけれど、わたしにはそういうデートコースは似合わない気がする。

芝生でわふわふしたり。川で遊んだり。写真撮りにいったり。星を見上げたり。

自然と遊ぶことが一緒にできることが幸せで。

それでも仕事を尊重したい今で。

 

わたしは未だに、恋愛と仕事のバランスがわからない系女子です。

時間があったら、とにかく勉強してたい気持ちが強くって。

 

恋愛するからには、彼との時間も大切にしたかったんだけど、

新潟にきてから、やりたいことがどんどん多くなってきてしまって、

頭の中は爆発しそうな勢いで。

 

今は、やりたいことがありすぎて、何を捨てたら良いのか未だにわからんのです。

でも、両手に抱えられるものは限られている。

 

何を捨てたら良いのか。

捨てる以外に選択肢はあるのか。

きっとあるんだろうけど、わたしはまだ”仕事のせい”にしたいだけだ。

大人になりきれない、おおきい子供。

 

5月に一度、関東に戻ろうかなあと、考えたけれど日程的に厳しい。

関東の会いたい顔ぶれがブワーって出てきてしまって、

イカンイカン、と思いながら生きる日々。

あぁ、会いたいな。

 

困ったとき、つらいとき、誰に相談しよう?

って、この土地の顔ぶれを思い浮かべたんだけど、

「いや、言えないな・・・」と、自分BOXにそっと、気持ちをしまう。

 

孤独感が笑ってる。久しぶりにこいつの顔をみた。

この先の生活に初めて不安が出た瞬間。

 

母とも久しぶりに電話した。

「あんたがいなくて、やっぱりさみしいよ」って。

なんなんだ。

ボディーブローをくらった。反則だ。

 

素直じゃない母がそんな気持ちを持ってるなんて知らなかった。

慌てて電話を切る。

 

喉の奥から、でてくるアレ。

家族の前でも人の前でも恋人の前でも泣きっ面は見せられない。

 

ボロボロこぼれる涙は止まらない。

車内でひとりで、嗚咽する。

こんなに涙もろかったっけ。

 

ひとりくらしをしていた時は、そんな電話をされたことなかったけれど、

物理的な距離というやつは、さみしさの階段を何段もかけあがるみたいで。

 

母は「新潟にはいかないでほしい。」と最後まで言っていた。

わたしと手を振った最後の日は、全然笑顔じゃなかった。

「元気でね」という言葉がさみしさでいっぱいだったのを知っていた。

 

わたしはその気持ちを受け止めることはできなかった。

本当にごめん、と思う。

懺悔の涙。

 

それでもこの土地でやりたいことがあるから、やめようなんて微塵も思わない。

恋愛に一区切りつけたことも、自分の中でプラスにしていくための出来事。

 

新潟で恋をするんだろうか、わたしは。

関東に戻りたい気持ちも捨てきれてはいないから、

恋愛のアンテナはとてもさまよっている。

 

パートナーと移住するのはやはりとても、心強いんだなと思った日。

もちろんわたしみたいな一人にも、この土地はやさしいです。

 

けれども、どこにいったって何かしらはある。

泣きたいときもある。

強がる日だってある。

そういうことを共有する仲間も、きっとできる。

 

でもまあ、あしたはきっといい日になる。

 

今日の一曲

ハンバート ハンバート ”ぼくのお日さま”

 

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「普通」を知っているからこそ、「恐怖」を武器に。〜シンガーソングライター松本佳奈と出会って編〜

海辺にて、わたしの作品撮影とともにモデルとして先日写真を撮っていただきました。

ここで、「あぁ、恋愛してたなぁ」と今では懐かしく思えた現場でした。

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隠していたつもりはないのですが、わたしは19歳だった当時、1年半ほど付き合っていた年上の男性と結婚していて、21歳の時にお別れしました。結婚生活は約2年ほど。

「別れた理由」は一言では語りつくせませんが、お互いにとって「しあわせ」が今後多くなる道が、「別れ」だと思って選択した、前向きなものでした。

彼は「別れるっていつかは言うと思ってた」って、寂しそうな言葉をぽつりと残したのを覚えています。
わたしが、「やりたいことだらけ人間」なのを知っていたから。

純粋にわたしの可能性に対して肯定的でもあったから、止めることが「無駄」なのを知っていました。

そして、「やりたいこと」と「結婚生活」の両立が、当時のわたしには「負担」という解釈でしか捉えられなくなっていたことも知っていて。

もっと「普通な人間」であれば「しあわせ」だったのかなぁ、と当時はそんな自分を責めてもいました。

けれど「好き」だけではうまくいかない時もあるのだと、「それもひとつの選択」として今は納得しています。一ミリも後悔していません。
別れてからわたしたちは、年に数回会っていましたが別れてからの方がとても仲良くなりました。(友達として)

彼の両親にはボロクソ悪い嫁だったと言われていますが(笑)

いいのです。それで。
わたしは彼らに何と言われようが、否定も肯定もしませんから、悪口の連鎖は止まります。
憎しみという矢印は行き場を失えば、時間がやさしく寄り添ってくれる。

そんな時代に知り合った、ひとりの女性の存在が今のわたしを作りました。

そして、未だに余韻が残ってる、夢のようなラジオ共演。

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木更津のシンガーソングライター松本佳奈との出会い

 

わたしが結婚していた19歳の当時、無印良品で働くこととなり、透き通るような女性がそこにはいて。
たぶん、一目惚れ。(百合的な意味ではなく)

それが、現在シンガーソングライターとして活躍中の松本佳奈だった。
彼女も入社タイミングが一緒だった。
きれいで、しなやかで、透き通る雰囲気にすごく憧れていた。

働く前に朝礼でルーチンや役割分担の確認をする度に、わたしは松本佳奈の白い透き通る肌をずっとみていて、朝礼の内容は頭には入っていなかった。

仕事の後に帰り道がたまに一緒になったりして、極度の人見知りだったわたしだったのに、彼女にはなぜか心を開いていて。

綺麗な雰囲気なのに、酒大好きなチャンネェで、話し出すととまらなくて、彼女の恋愛話に、勝手にかなり心配した記憶が。
また、その人間くさいギャップにすごく親近感があって、彼女と出勤がかぶる日は嬉しかった。

けれども、お互いプライベートまではグイグイ踏みこむタイプじゃなかったから、数で数えられる程しか飲んだことがなかったという、仲だった。

彼女曰く、この時期は音楽を続けることを諦めて、無印良品の社員を目指すことも考えていたそう。
なので、「音楽活動をしてます」とはおおやけにはしていなかった。

 

仕事を辞めた後に知った、彼女の音楽活動の苦悩

 

わたしは、無印良品を半年くらいで辞めて、アパレルのお店で半年ほど働き、人見知りがしんどかったので接客業はもう辞めようと思って、去年退職した会社に金融事業の営業事務の本社部門として入社することとなりました。

入社してしばらく経ってから、無印良品の千葉にあったお店が閉店するということで、送別会に誘われて、彼女と再会した。彼女はなんと結婚していた!そして、わたしは離婚していた!(笑)
(が、彼女はパートナーとすこぶるうまくいってるかというと訝しげだったからまた心配になったりして)

元々「ピアノで音楽を少しやっている」とは聞いていたけれど、このくらいの時期から彼女は再び音楽活動を本格的に再開したようで、結婚と音楽活動との両立を目指している姿に「キラキラ」を感じた。

わたしは「やりたいこと」と「結婚生活」の両立ができなかったから、眩しくて、こわかった。
「見たくない」とすら、思っていた。

そう、わたしは彼女の「表面的なキラキラ」な部分しか見ようとしていなかったから。

音楽活動をする大変さも、経済的な面でも、パートナーシップにおいても、彼女は人に見えないところで、折れそうになりながら自分を保ってきた。

 

被害総額500万円の借金完済は、面識のなかった父からのご祝儀で

 

この話は、佳奈さん自身「不幸を身売りしたくない」ということからプロフィールから削除しているけれど、「音楽事務所」の詐欺で、総額500万円の被害を19歳の時に経験している。

彼女はそれから返済に明け暮れ、キャバクラでも働いたことがある。

働いては歌い、
働いては働いて、
諦めかけて、
出会って、
結婚して。

コツコツと返済を何年も続けていたけれど、完済の道のりはとても遠かった。

彼女は幼い頃、両親が離婚していて、お母さんとおばあちゃんとの3人暮らしだったので、お父さんとはほとんど面識がなかった。

そんなお父さんに結婚式の報せをし、彼女の抱えた経済事情をお父さんはその時初めて知ることとなった。
家族として離れていても、子供に対しての愛は消えることはなくて。

その愛の形が、お金としての形に表れた。
お父さんがご祝儀を多めに包んでくれたことで、借金の完済が終わったのだ。

お祝いのお金を返済に充てた彼女の気持ちは、わたしには想像することもできないけれど、彼女に通る一本の芯は、そんな日々の中から生まれた「強さ」だと思う。

強さというのは、時には「努力」と勘違いして邪魔になることもあるし、「迷い」と隣り合わせだから、できれば「粘らなくても好きだから勝手に粘ってて結果として強くなった」という状況が1番理想。

ただひとつ言えるのは、「正しいのか」、「間違っているのか」という2択の問いは、挑戦して、継続している人だけが「強さ」と「自信」に変えられるアイテムなのだと思う。

けれど、わたしは「挑戦しない」ことが悪だとも思わない。
同じところに留まり続けられる人は、「それもひとつの力」だと思うから。

わたしはとどまり続けるのがたまたま合わない人間だったから、今の道を選択しただけ。

 

「変化」はコンプレックスではなく、「結果」でしかなかった。

 

変化は時に、激痛を伴うこともある。
やわらかくて、あたたかいときもある。

そもそも変化なんて、気づかないうちに手に入れてるものだから「気づく」ことが大事なことだと思っていて。

「変化=自分の外側」にフォーカスするというよりは、何を吸収して、何を受け止めて、「自分」はどうしたいのか、に重点を置いていると「ありゃ、またまた変化してるなぁ」という、ただの「結果」という名前でしかない。

そんな「変化」という名前を、「人に流される」という、悪い方のコンプレックスとして長年捉えてきたわたしだけれど、今は「結果として」変化という成長を受け止める自分の器を持てた。

変化にこだわりすぎるのは、苦しい。
そのままの自分を「受け入れられてない証拠」として突きつけられるようなもの。

種から芽が育ち、木になって、実りになるように、ひとつひとつの成長として「変化」を捉えていきたい。
肥料が欲しいと「気づいたなら」肥料が欲しいと口に出してみる。

変化したいから、美しくなりたいから、という目標ばかりを追いすぎないで、目の前の心の声に従ってみる。
わたしはこれが生きていく上で、「成長という変化」にできる近道なのではないかと思ってる。

何かが怖くてチャレンジ(変化)できないというのは、「変化を受け入れた自分」という体験を、「気付いてこなかったから」なんだと、今までのわたしを振り返ってみてそう感じた。

雪景色から桜になりました、というわかりやすい外側の変化の話ばかりを追い求めるのではなく、「こんな本音があったんだ」という「俯瞰」することで、勝手に行動はアクションを始める。

わたしと佳奈さんはたまたま痛みを乗り越えて、「あるべき姿の自分」に戻ったけれど、正直10代から離婚までのしんどさは、二度とやってきてほしくないとも思う。

そして、その後の佳奈さんの話ですが、いろいろあり、離婚の道を辿ります。
ここで、わたしは彼女とは親近感を更に勝手に感じていました。笑

 

久しぶりの再会に、素敵な女性の影がもうひとり。

 

佳奈さんのライブにはちょくちょく足を運んでいたけれど、ゆっくり会って話す機会があんまりなかったので、ご飯でも食べようということになり、3月某日、会うことになった。

そこには、みどりさんという女性の存在もあった。
みどりさんとは、SNSで運命的な出会いで繋がれて、ネットからリアルに飛び出したのがこの日。

高校の同級生であった佳奈さんとみどりさんは、佳奈さんがFacebookで「いいね!」した記事がわたしの新潟移住の話で。

その記事がみどりさんのタイムラインにたまたまあがり、共感してメッセージを下さり、友達になって。
みどりさんも、旦那さんと長野移住をするタイミングとほぼ同時だったということもあり、わたしの言葉のひとつひとつが、みどりさんのこころに、真っ直ぐに届けられた。

みどりさん曰く、「いきなり知らない人にメッセージするようなことはほとんどない!」と言っていて、「不思議なご縁もあるのだなぁ〜」という、運命的な匂いを勝手に感じてた。
そして、3人のスケジュールが合ったというのも、運命的なものを感じずにはいられない。

みどりさんは、おしゃれで、ふんわりしていて、やさしくて、しなやかな強さがある女性だということが少し話しただけでわかった。

3人で話せば話すほど、ネタのような恋愛話に盛り上がり、みどりさんは初対面だったけれど何でも話せて、自分の価値観と合う人との濃い話ができるというのは、「居心地の良さ」ってこういうことなんだなぁ、と感じずにはいられなかった。

このとき、自分が発信というツールを使ったことによって、「本当に自分に必要な人」と繋がることができる素晴らしい時代に生まれ落ちたんだな、と思った。

笑いあり、笑いありの、ほとんど笑いしかない話の傍、移住の話や「生き方」の話をした。

 

普通」を知っているわたしたちだからこそ、「恐怖」を武器へ。

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佳奈さんは東京暮らしから、生まれ育った木更津に戻り、シンガーソングライターとしても活動し、イベント企画の主催者として、地域を活かし、コミニティーを作っていきたいという。
キャンドルナイトやアート作品、ミュージシャンを集め、地元の食とのコラボなど、挑戦をし続けている姿に尊敬せずにはいられないし、どんどん彼女の良いところを吸収していきたい。
そして、新潟に連れて行きたいと思っている。彼女の良さを新潟の人にも伝えたい。

みどりさんも5月に、東京から長野県の諏訪に旦那さんと移住することとなり、染物などをやっていきたいという。旦那さんも音楽活動をしていて、話を聞いているととっても面白い方で、お会いしたいなぁと思う素敵なご夫婦。みどりさんも同様、今年新潟に連れてくる予定。

わたしたち3人は「普通」を知っている。
知っているというよりは、「普通」を共有できると表現した方が良いのかもしれない。

わたしと佳奈さんは音楽活動をやっていくけれど、「アーティスト」って、天才肌の人がいたり、ズバ抜けて何かが飛び抜けていたり、「普通」という感覚がなくて、世の中に認められる人もいる。

けれど、わたしたちは「普通」の女性であり、人の目を気にすることなんてしょっちゅうあるし、恋愛でいちいち悩んだりするし、働き方、生き方について、もがいてもがいて、泥臭くてかっこ悪くても、自分の気持ちに素直になることを大事にして、「自分の生き方」を創っていきたいと思っている。

気分ルンルンで何かを成し遂げられる人ももしかしたらいるかもしれないけれど、わたしは臆病なので、恐怖を抱えながらも、「こわいけど、やってみます」を武器にしたいと思っています。

 

「キラキラ女子」より、「泥臭い女子」でいい。

 

最近「キラキラ」しているね、なんて言われることがあるけれど、わたしは生々しくて泥臭い姿を見せていきたいと思っている。 「キラキラ」とは少し感覚が違うかもしれない。
(褒めてくださることはありがたいですし、もちろんうれしいです。)

挑戦すればするほど、葛藤と悩みは尽きないし、不安だったり、反省したりすることも多い。

よくSNSで「わたし、しあわせです」という投稿を見かけるけれど、しあわせの裏側には、悩んだり、葛藤したり、人に見せたくない部分が必ず存在する。
わたしはそれこそ「美しいなぁ」と思う。人の醍醐味というか。

「キラキラ」という輝きは、目立つけれど、目立てば目立つほど、「この人、わたしと違うからこんなに輝いてるんだ」なんて思わせたくない。

あなたとわたしは同じ人間であり、もがいてあがいて、膝小僧が傷だらけでも、行く先に「おもしろさ」があるならば、絆創膏を貼って、歩んでいきたいと思っている。

そこに「生き方のヒント」を誰かに提供できるんじゃないかって。

泥んこの姿を受け入れて、楽しんでみる。
生きることを遊んでみる。
それが、今のわたしにできること。
発展途上をありのままで伝えること。

彼女の強さと泥臭さを存分に感じたところで、わたしはただただ痺れるだけ痺れて行動に移していなかった自分の弱さから目をそらすのをやめて、受け入れることにした。

裏も表も自分で、強さと弱さは両方あってわたし。
どちらか一面だけを受け入れていたら、違和感がつきまとい、生き方が彷徨う。

歌うことが好きで、自分1人だけで自己満足していたけれど、新潟移住を機に自己満足からやっと、人前で歌う、ということをしていきたいと思えた。

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また、佳奈さんが「魔法のてのひら」のアルバムをリリースします。
CDを作るというのは、今の時代、費用をそんなにかけなくても「できる」けれども、アートワークや、スタジオ収録など、お金の使い方で「できあがる」ものが違って来る。

そんな「できあがり」の違いにこだわりたかった彼女は、クラウドファンディングで資金を募ることにしました。
ご支援くださる方は、下記のURLからご支援頂けましたら幸いです。
(3/31 23:59まで)

「魔法のてのひら」制作プロジェクトクラウドブァンディング

佳奈さん、みどりさんとは今後も何かの企画をやろうと思っているので、少しずつ形にしていく作業を移住の暮らしとともに実験していこうと思います。
どうぞ、よろしくお願いします。

他人の評価の潤いは一時だけれど、自分で自分を潤わせることは一生もの。

 

結婚して、子供がいて、お家を建てて。

はたから見たら「この人は何もかもをもっている」なんて思う人がいるのかもしれない。

かくいうわたしも、去年までは人のことが羨ましくてどうしようもなかった。

特に、素敵な活動をされてる方を見たときの劣等感はすごかった。
わたしもこうなりたいのに、目立つのこわいし、わたしには才能なんてないし、と。

自分の情けなさを見せないために、忙しいフリだけは得意になっていく。
がんばるフリも女優並み。

どうしようもなくて、嫉妬とする対象の人を遠ざけたり、応援するふりしたり、こそばゆいことだらけに支配されるようになって。
自分に自信ないのに、劣等感の表現だけは自信がつきました(笑)

それくらい自己嫌悪マニアだったし、劣等感マニアだった。

今でもたまに、劣等感はちらついてしまったりします。

けれど、わたしはわたしでしかないという、当たり前の事実に向き合えるようになって、人に認められることだけが幸せなんて、そんなの悲しすぎるのではないかと、ようやく他人の評価で、自分の心のコップの水を満たす作業をやめました。
他人におんぶに抱っこしてもらわなくても、二本の足はわたしでコントロールできる。

そんなわたしが二本の足の運び先である新潟に行く前に、一度会いましょうということで、4年間働いた会社で出会った、辞めてからも何かとお世話になりっぱなしなS姐と、O氏と、3年ぶりに会うチャンカワとゴハンにいってきました。

 

母としての美しさは、手からにじみ出る。

 

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写真の文字ですが「ちゃんかわママになったってよ」の方が正しかった。。。

3年ぶりのちゃんかわとの再会には、あかりちゃんという女の子の1人の母親としてパワーアップしていて、あかりんを見る目が愛で溢れていて。

 

ごはんを食べさせる手。
飲み物を飲ませる手。
あやしてあげる手。
髪をかきわける手。
おしりをポンポンする手。
抱っこする手。

 

あぁ、母親ってきれいだなぁって、思わず見惚れてしまいました。

 

惚れてまうやろー、と本物のチャンカワイが言いそうなセリフをちゃんかわに言いたくなってしまったのは、内緒。
いろんな葛藤がありつつも、ひとつずついろんなことに向き合っているちゃんかわ、会えてよかった。

 

結婚してたっていろいろあるし、子育てしてたってやりたい仕事あるし、それがそもそも「普通」であり、素敵なこと。

他人の目立つ良い部分と、自分の悪い部分を何かと比較することが癖になってしまうことで、自分に自信をなくしてしまったりするけれど、裏にどんな事情があるかなんて、誰のものさしでも測れはしなくいのに、比較の意味なんてないなあ、と思っていたのでした。

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葛藤後の美談だけに、目をくらますような人にはならないでね、あかりん。

葛藤も小さな小さな素敵な種だから。

などど、お節介なことを思うわたしでした。

 

「場所」で集まるより、「人」に集まりたい自分の性格

 

わたしは友達と会うとき、だいたい一対一がほとんどで、あまり女子3人以上でゴハンにいくことって、振り返るとあんまりなくて。
それは、女子が4人以上集まると濃い話がしづらいことが起因している気がします。

 

4人テーブルに座った時に、誰かが話しすぎたり、誰かが話さなすぎたりする時って、

「会話のキャッチボール平均運動開始!」

っていう脳内指令が始まって、気づくと「話を滑らせること」に意識して、肝心の会話の中身にはなかなか集中できないわたしがいます。

 

これ、疲れちゃうんですよね。

 

それなのに、めちゃめちゃ喋る女の子がいると、「早く終わらないかな〜早く帰りたいな〜」って飽きてしまう自分がいたり。
なんだろう、わたしは淡白なのかな。面倒くさがりなのだろう。
根本がネガティヴなので、いろんな異質なエネルギーが混じってる集まりに苦手意識を感じてしまうんです。

 

なので必然的に2人で会うか、多くて3人で会うことが多くなり、「人」に集まるというより「場所」で集まる人と濃い関係が築きづらいのがわたしの特徴となりました。

 

これにはいい面と悪い面の両方ありますので、この特徴はもう少し柔らかく形を変えていけたらいいなぁ、と思います。

こんなちょっと面倒な性格ではありますが、今回の女子4人談義は、そういう煩わしさがなくて、居心地がいいんですよね。
だから結局のところ、集まる人の質が良ければ(わたしの勝手な質への評価ですが)女子会は好きなんだなぁ、と思いました。

 

命を惜しみなく使い尽くす人間でありたい

 

その後はO氏とふたりで、池袋にいきました。

今年のやりたいことリストのひとつである「演劇を見る」を叶えてくれたドラえもんがこのO氏。
新潟行きのお祝いということで、連れて行っていただきました。

このO氏については、「ありがとう」という一言では伝えきれないほど、わたしにとっては会社員時代の大恩人でして。

この方の素晴らしさをめちゃくちゃ書きたいのですが、本人からはブログ紹介NGが出たので、観劇のお話。

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舞台、逆鱗。
メインキャストは瑛太さん、阿部サダヲさん、松たか子さん、井上真央さん。
他にも紹介しきれないくらい豪華な方たちが勢ぞろい。

舞台が始まった瞬間の空気。薄暗い水色の照明。
水の匂いなんて知らないけれども、水の匂いがしそうな幻想的な空間に、人魚として登場した松たか子さんが発する一音一音に、惹きつけられていく。

会場内に透き通る声には「命を使う」とはこういうことなんだと、一瞬で感じました。

ただただ綺麗。
同じ人間として、ただただ素晴らしい。
俳優さんたちの力強い演技、そして言葉を伝える「声」。

序盤は笑いありのお話だったのに、最終的には時間系列がわたしには理解できないくらい、複雑な作り込みがあるお話で。

 

瑛太さんへの最後の結末とともに、湧き上がる観客席からの強い強い拍手が鳴り響く。

この拍手の音が、俳優さんたちの日頃の鍛錬の努力と、命を使い尽くした演技と、観客席と一体化し、感動というエネルギーになって爆発していました。

 

拍手って、「人への敬意」を表現するとても素晴らしい手段だなぁと、改めて感じました。
手が生まれつき2つともついててよかったなぁ、としみじみ(笑)
ありがたいとは、まさにこういうこと。

 

俳優さんたちのこの爆発的なエネルギーを感じて、わたし自身も「命を使い尽くす人間」でありたいなぁと、嫉妬とは別物の、純粋な憧れが生まれました。

他所の人の小言につまづいている場合じゃない。

「ほんまさゆり」を出し切りたい、そう、思いました。

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人からの評価の潤いは一時。心のコップが乾いたなら自分で自分を潤わせること。

 

この素晴らしい瞬間に感動を体験し、それを生き方にプラスにできる心をもってることが、今のわたしには「やり方という技術」より立派な財産だと、自分への価値を肯定できるようになりました。

わたしには、今手に持ってるものなんて何もなく。
肩書きもなければ、地位も名誉もない。
背伸びできる技術もない。

ただ、「ほんま さゆり」という名前があって、五体満足で呼吸をしている。

好きなことと、好きな人、友達の多さで人に優劣をつけたがる人がいるけれど、「好きだと思ってる」「友達だと思ってる」というのに証明する手段なんてなくて、それはやっぱり自分ありきの頭の中の「想い」であって、手に持っているものでもない。

 

だけれど、生きてる限り心はあるし、体もある。想いもある。

上下優劣をつけることを、手放せば手放すほど楽になっていく。

 

好きなことと、やりたいことがたくさんある人が上だとか、人に流されちゃうからわたしはダメなやつとか、それはいつ、誰が決めたのかと問いたい。わたしに。

 

「やり方」を追いかけた身としては、「在り方」だけで、こんなにも生き生きできる自分になるなんて思いもしなかったので、頑張ることに疲れちゃった人は、「時間を感じる=今」を、仕事を休んででも心のままに感じて欲しい。

頭で考えてたら、いつまでも心は置き去りのまんま。

何を無責任なこと言ってるんだ、と怒られてしまうかもしれないけれど、どんなに生き急いでも、素晴らしい未来が待っていたとしても、大事なのはやっぱり「今」で、そばにいる人たちで。

そんな「今」をとても感じれるのが、自然や山や海たちと触れ合ったりすること。

頭を使わずに、心をよく感じれます。
しんしんと降る雪に、水のせせらぎに、評価なんてつけないのと同じで。

 

自分を好きになることが、心のコップに水を注ぐこと。
人からいただく評価という水は一時は潤っても、いつかは乾いてしまうから、「もっと、もっと」と欲しくなる。

成果が価値だと信じたり、誰かに数字が勝ってないと、自分を嫌いになってしまうなんて、そんなの生きづらくってらしょうがない。

目に見えるもののすべて、自分というフィルターを通して見る世界だから、自分の土台ができていないと、見える世界も歪み続けてしまう。

そのしくみを逆転させることは、自分と向き合う作業。
心を整える時間があると目に見える景色は確実に変わります。

そんな、ちょっと前まで劣等感マニアなわたしが言うから、少しだけ信じてみてほしいです。
今までの劣等感から向き合った自分の内側に潜る行為が、言葉として、人に伝えられることができる今が、なんとも不思議な幸せです。
苦しかった昔の点が、未来に希望を託したように、今わたしをやさしく包んでいる。

とうしんだい、バンザイな素敵な日でした。