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”やりたいことの先延ばし”の言い訳に「年をとっても、やりたいことはできる」という甘い言葉

関東にいる時に、

「売れないバンドマン」によく会った。

 

マイナーなアーティストから

メジャーなアーティストまで

様々なライブを観に遊びに行っていたから。

 

そんな日々の中で

バイトや日雇いの派遣などをしないと

生計を立てられないが、

それでも好きな音楽を世の中に発信したいという

「バンド活動」をする人たちの

「将来のリスク」をよく考えていた。

 

「将来のリスク」を考えることと、「保守的になること」の違い

 

「年齢に関係なくね、やりたいことに挑戦できるんだよ」

そんなちょっとした甘美な言葉がある。

 

これに異論はないけれども、

「年を重ねても、いつだって、なんだってできるんだ!」

この言葉は「将来のリスク」から

「思考停止を誘う言葉」という危機感がある。

 

「将来のリスク」

「将来の保険」

 

それらを考えることはとても大事なことだと思って生きてきた。

だからといって、「保守に徹すれ!」とはまた違うこと。

 

「”攻める”ために、いかに”リスク”を考えられるか?」という

最大の攻めの姿勢なのだと思っている。

 

「履歴書に傷がつくことに悩んでしまう」

ということは決して格好悪いことではない。

 

「自分」という会社の経営者は「自分」でしかない

 

現代は、「自分をいかに経営するか?」ということを、

問いかけられている時代。

 

いわゆる「自分」が人生の中で

ひとつの「会社」なのだと思って、

大切に扱う力がより現代を楽しめると思っている。

 

会社を経営するには、

ブランディング、マーケティング、経理、営業・・・

様々な担当がいて。

 

「自己満足」の「売れないバンドマン」が多いと揶揄されるのは、

「自分の気持ちよさ」だけが突出しすぎてしまい

「相手がいてこそ成り立つ」ということで

「物を売る」ということを忘れてしまっているから。

 

自分一人の力で何ができて、何ができないのかを

考え続けることが、会社経営の代表取締役の仕事で。

(自分の脳みそのお仕事)

 

バンドマンもひとつの組織なわけで、

「自分」という、「会社」の集まりの「合同会社」みたいなもので。

 

会社に経理、マーケティング、営業がいなかったら、

それらが得意な人と協力してもらえるように、考えること。

 

おそらくそれは、「友達」にも通ずるものがあって、

「わかるわかる!」と言って終わりの友達と、

延々と愚痴を言っているのは楽だけれど、

自分の承認欲求が満たされるだけの関係になってしまう。

「自分にとっての変化」はおそらく乏しい。

 

何かを始めたければ、新しい出会いを

 

何かを「やりたい」「実現させたい」ということに

「仲間のつながり」というのは、とてもとても大切なことで。

 

経理が得意な人がたくさんいすぎて、

営業がいなくても会社は売り上げがとれないのと同じようなことで。

 

新しい人や価値観との出会いは

自分に欠けている何かを、集めてフルパワーにして

視野を広げられる材料になる。

 

特に、地域おこし協力隊をやっている身としては、

移住者とその土地の人の、全く違う価値観が、

どんな料理になっていくのか面白いところ。

 

最後に・・・

 

最近は、幸せなことが多くて心が満たされてしまって、

「これがやりたい」というエネルギーが弱くなってしまったことが

とても不安だったけれど、また少しタイトルのような言い訳を

自分にしないために、また進みます。

 

帰省?ついでにいった長野で撮ったコスモスがとってもきれいだったのでした。

やっぱり写真で自分を表現するっていいなあ。

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東京だけが栄えるのは本当?それ酒飲みながら言ってんじゃないの?

佐渡。
 

以前勤めていた会社では、
やっかいな島だと思っていた。

 

金融商品を提供しようにも
離島だと運用費がかかっていたから。

 

新潟全体でも「収益がとれない」
そういう位置付けをしていた。

 

全国的に数値を割り出して、収益を求める。
それが「会社としての方針」だった。

 
 

需要があっても収益がとれないものは、

 

よほどの繋がりがない限りは、決裁はおりない。

 
 

「それが当たり前。」

 
 

東京の真ん中で働いていた時は、
地方を「数値」として評価していた。
なんだか自分が地方の人より
上に立っているような感覚さえあった。

 

今はその感覚が「無知」の警鐘に
気付いてなかっただけなんだと
心を掴まれた、佐渡の棚田サミット。

 

お米のブランディングの勉強として
参加させてもらった。

 
 

東京だけが栄えるのは本当?それ酒飲みながら言ってんじゃないの?

 
 

「棚田には夢がある」を軸に、現地視察、
棚田の価値について分科会ごとに学びを深める棚田サミット。

 
 

会場の熱気は、まだ息をひそめていた。

 

里山資本主義。

地方に感度のある人なら
ほとんどの人が知っている
著作なのではないだろうか。

 

「里山資本主義」を執筆した「藻谷浩介」さんが、
会場の空気をいつの間にか異様なものに変えていた。

 
 

粛々と進められるプログラムの中のひとつとして
講演が始まったからだ。

 
 

「電気消してください。
わたしの講演スタイルは、
こういうスタイルなんでね。」

 

油断していた眠気が吹き飛ぶ。

 
 

「そこの眠っている方。
せっかく佐渡にまで来たのに眠ってるんですか?
あなたですよ。まだ気づかないんですか?
わたしはね、義父の葬式に出席せずに
佐渡に来たんです。
葬式ではなく、佐渡に行けと
あの人も言ったでしょう。」

 

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「本気」で伝えようとしてる人は
こんなにも格が違うのか、と
わたしは目ん玉を見開いていた。

 

葬式云々の話ではなく、
いかに多くの人に伝えるかという
「本気」ってこういうものかと思ったから。
そこらへんのセミナーとは違う。

 

ノートにメモを走らせる手が止まらない。

 
 

言葉の抑揚、アイデンティティという食材を
「藻谷浩介」として調理して、
地方の本質的な価値を「事実」をもとに述べる。

 
 

述べるだけではなく、「伝える」という料理が
目の前にたくさん現れる。

 

気付いたら涙が出ていた。

 

その涙にはいろんな感情があるのだろうけど、
シンプルに「感動」してしまった。

 

自分の思考がいかに
「机上の空論」から統べる思考だったのかと気づけた。

 

そして、藻谷さんの言葉がいかに地方の価値を
「事実」を元に「未来」を見せてくれたか。

 
 

「”東京だけが栄えるのは良くない”とか、
あなたたち、酒飲みながらいってんじゃないですか?
この人口のデータは、住民票を元にした事実なんですよ。
東京だけが栄えるなんてのは嘘なんですよ。」

 

そう、それは人口データだった。
都会で出生率、佐渡での出生率。
人口推移。高齢化の事実。

 

「こういう事実を知ってから、棚田、里山と、言ってください。」

 

ぐうの音も出ない。
協力隊がこんなことも知らないで地域おこしなんて、
地域の人に失礼すぎると思った。
自分を恥じた。
同時に伸びしろでもあると思ったし、
新しい視野を開拓できると思った。

 
 
 

社会とは自分であり、日本とは自分であること。

 
 

わたしは藻谷さんの言葉のひとつひとつが、
無知に入る言葉すぎて、現在も咀嚼できていない。

 

自分で確かめなければ。
自分で学びを深めなければ。と。

 
 
 

藻谷さんの著書である、
”里山資本主義”と、”しなやかな日本列島のつくりかた”を購入した。

 
 

「棚田の価値は80代の人に聞けばわかる」
その言葉の真意も確かめなければと思った。

 

今のわたしが「棚田の価値」を誰かに伝えるなんて、
おこがまし過ぎる。
本質的なことはひとつも言葉に出せない。

 

自分が協力隊として活動する地区には
幸いにもそんな宝のような人材がたくさんいる。

 

冒頭で書いたような、「地方をお金で換算」でしか見れなかった自分。
そんな自分を今一度事実で壊したいと思った。

 

都会に住んでいる人の大半が「お金」による不安を抱えている。
それは、社会のせいにすることもできるけれど、
「自ら」切り拓いていくしかない。

 

社会とは自分だ。
日本とは自分だ。

 

わたしたちはいつのまにか
何かのせいにして「自分」を忘れている。
棚に上げている。

 

現在のわたしは、都会で働いていた時に比べたら
「お金」に対する不安よりは、
「生き方」を貫けるかの方が大きい。

 

地方に住むと、支出が明らかに減る。(もちろん工夫次第ですが)
お金による執着よりも、人や資源に対する感性が養われる。

 

「地域おこし協力隊」なんて名前だけで、
じさばさを幸せにするお手伝いっていうのは、
なんだかすごく上から目線だな、と
わたしは自分に反省している。

 

なぜならこの土地のじさばさは、
都会より明らかに豊かな生活を送っている。
自分のしあわせがなんたるかを知っている。

 

むしろ私たち若い世代の方が、
自分で自分を幸せにする力が弱いと思う。

 

協力隊なんて名前だけで、
むしろわたしたちの方が学ばせてもらっていることを
忘れてはならない。

 

そんなことを思った棚田サミット。

 

(他に学んだことは、地域に実際に落として行動にしてから)

 

棚田の価値はもっと学びを深めてから
言葉にしたいと思います。

 

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他人「任せ」にしない。けれどもお互いの長所を「頼り」あって、地域づくりをする。

「すごいね」と言われるたびに、泣きそうになる時がある。

「かがやいてるね」と言われるたびに、「そんなことないのに」と思う時がある。

「行動力があるね」と言われると、空回っている自分がやるせなくなる。

 

それは「自分自身への評価」と「周囲との評価」のギャップに苦しんでいるから。

わたしは、自分が「すごい」とか「かかがやいてる」とか、未だ、思えていない。

日々失敗と、反省と、ドジばかり。

なんでこんなのもできないんだろう。と焦るばかり。

 

「あぁ、また嫌われたな。」とか。

「あぁ、あの一言余計だったな。偉そうにいってしまった。」とか。

「人見知りを理由にして人付き合いを避けて情けないな。」とか。

誰かに傷つけられることより、自分で自分を責めて傷つくことが9割方と言える。

「傷つく」のなれの果てはただの自己否定。

 

けれども、それがまるまる、今の自分。

「自分探し」なんてものも、とうに終わって。

自分を受け入れたいけど、受け入れられない境地で日々自分と向き合っているから、探すという名ばかりのかくれんぼゲームからは脱して。

生きていく上で、ヘマする自分をいかに受け入れられるかで、空も、山も、虫も、人も、何もかも違ってくる。

自分が好きだと、愛情が内側から外側へ注げるようになる。愛情は自分というコップからあふれると自然と自分以外のものに注がれる。

内側が空っぽだと、「誰かのため」なんてのは、すぐに干からびていってしまう。

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「がんばっているのを知っているよ。」とやさしく、背中を押してくれる。

 

ここまで上の文は、数時間前に書いた文章で、どんよりしていた。なぜならモノゴトの振り返りが悲観的になっていたから。

けれど先ほど終了した、「田毎の月の反省会」兼懇親会に参加してきて、すっかり気持ちが変わっている。

飛渡地区の三ツ山集落の方達が集まっていて、田毎の月の次年度の運用について、2ヶ月しか移住していない自分が声をあげさせてもらったら、柔軟に耳を傾けてくださり、「あぁこの方達は未来をみつめているんだなぁ」と感じた。

 

あるおじいちゃんが素敵な言葉をくれた。

「あなたはすっごく、がんばりやさんだ。噂で聞いているよ。すごく期待しているんだ。うちにおいで。昔話を聞かせてあげる。」

なぜだか泣きそうになる。認めてもらえてるんだ。

忙しない日々の中で、「がんばる」と「無理する」の境目が未だによくわからないけれど、今の自分に対して愛しく思えた。

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また、別のおじちゃんも背中を押してくれた。

「あなたに初めて会った時、以前住んでいたあの彼女と同じだと思ったよ。彼女は誰に何を言われてもやりたいことを貫き通してね。ほんとうによくがんばっていた。”疑問を声にあげる”と仲良しの輪からは、はじかれるときがある。自分も惨めな想いをしたんだ。」

間が空く。

「きたばかりのあなたにいっていいのか迷うけれど・・・。」

あぁ。ここで会話を紡がなければ、この方の「本音」がどこかに消えてしまうと思った。

 

「いいんです。いってください。」

そう言って、3秒ほど、言葉が紡がれるのを、待った。

 

「・・・意見を言わないことはね、平和なのかもしれない。けれどね、声をあげる人が、”あいつは反抗的なやつだ”と言われる風潮は、違うと思うんだ。反対されても、議論することは大事なことなんだ。だからあなたはやりたいことを貫き通していいんだよ。そんな風潮を変えていってほしいんだ。もちろん、誰かには嫌われるかもしれない。だけど、あなたの志を貫いてほしい。村の人すべてにいい顔していたら、あなたのやりことできなくなっちゃうでしょ。やりたいことやればいい。あなたには以前いた彼女と同じものを感じるんだよ。」

 

まっすぐなボールだと思った。嘘のない、「希望」が乗せられていた。

同時にこんなボールを受け取れて、光栄だな、と思った。

この土地に2ヶ月しか住んでいないし、その場で語りあった方達とは何度か面識があっただけで、しっかりと話したこともなかった。

それでも、空気や、言葉や、意志が、数時間の間で伝わっていたんだと思うと、勇気をだして「伝える」をやってよかったな、と心から思った。

 

農業はできないけれど、農業を伝えるお手伝いはしたい。

 

わたしは、協力隊としてやりたことがかなり固まっている。それをいろいろな人にお話させてもらっている。アドバイスをくれたり壁にぶちあたったり、そんな毎日。

飛渡地域は「食」や「農」に対して、とても魅力のある土地。

けれどわたしは「農業」をやろうと思ってきたわけではなく、外仕事も苦手。

「農業やりにきたの?」と聞かれ、「いいえ」と答えたその後の寂しそうな顔をされるのが、心がチクリとしたりもする。

だから、自分の気持ちは伝える。中途半端は気持ち悪いから。

「わたしには農をやる技術はありませんが、みなさんは技術を持っています。わたしはその技術や、農を伝えたり、売るお手伝いをしたいと思っています。」

そう伝えると、途端にみなさんの顔が華やぎ、いろいろな希望や夢を伝えてくださる。

お米についてのこだわりや、村のビジョン。

飛渡全体を元気にしたいのはもちろんだけれど、まずは自分の村を元気にしたいと熱く語ってくださる。

その思いに対して、「こんな方法とこんな方法がありますよ」と提案すると、「あぁ、そんな方法もあったかぁ」と柔軟に耳を傾けてくださる。

わたしのような移住二ヶ月の24歳の小娘の言葉に耳を傾けてくれるほど、「村を愛している」ことが伝わって来る。

IMG_4616Photo by Hattori 田毎の月観月会

 

すべてに良い顔はできないから、自分の志と重なる部分と全体的な視野を

 

最近は「ただの飲み会」から「本音を聞き出す飲み会」にシフトしたいと思って、コミニケーション方法を試行錯誤しており、飛渡全体の方々が、様々なビジョンや想いを語ってくださる。

「実はこう思ってるんだよね」そんな言葉がもらえると、うれしい。

「これなら、任せてほしい」と頼らせてもらえる力をいただけるのも、うれしい。

飛渡地区は14集落あり、任期中に自分のやりたいことをやるためには、すべてにいい顔できないけれど、その村の方達の想いと自分の志(やりたいこと)の重なる部分が見つかると、あしたもまた頑張ろうと思える。

 

何かを「変化」させるのは、エネルギーがいる。

 

その「変化」を求めなければ、エネルギーはいらないかもしれない。

それは「楽」かもしれないし、「平和」と呼ぶかもしれない。

けれど「変化」することを、「決めて」いるから、

壁にぶち当たったとき、「じゃあどうすればいい?」

そんな思考パターンが「当たり前」になる。

 

ゴールに向けての「点」ならば、乗り越えることを考えるのが「当たり前」

弱っても、迷っても、芯がブレない人間になれる。そんな土地に足を置いた。

 

他人「任せ」にしない。けれどもお互いの長所を「頼り」あって、地域づくりをする。

この集落はそんな他人と、自分の役割の線引きと、チームワークを大切にしながら、「希望」に「変化」を望んでいる。

 

「しがらみ」「伝統」「常識」に固執する人は、田舎では珍しくないけれど、

「尊厳」も大事にしながら、「新しい風」も取り入れる。

そんな柔らかさを感じる、日だった。

昼間の暑さからがらりと変わって、冷涼な風も吹き、干からびていた大地に恵みの雨が降りだした今夜。

 

頼られると「やること」レーダーがグイーン、と自分キャパをオーバーしてしまうことが悩みだけれど、転びながら、頼りながら、気付きながら、変化を楽しみながら、進みたい。

あしたはツリーハウスを村の方にご紹介いただけることになったので、下見にいってまいります。

 

やることが盛りだくさんで、何やらまたすぐにでもキャパオーバーしそうですが。。。

歩きまっせ。

 

 

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地域おこしの最果てが「移住者の奪い合い」にならないために、ひとりひとりが「自分のしあわせ」と向き合うこと。

昨日はこんな話をした。

「村の存続が、”地域おこし”なのか?”幸せな村の閉じ方”も考えるべきじゃないか」って。

いわゆる、「村を失くさないために、人口流動(移住者を増やす)で限界集落を立て直すことが”地域をおこす”ということなのか」という疑問を、ご飯を食べながら「うーん」と唸りながら、話していた。

十日町に暮らすちょっと前に、ココロココ主催の「多拠点ワーク」がテーマのイベントに参加し、多拠点をライフワークとしてすでに取り入れている方たちが登壇していて、ズシンとくる言葉があった。

「地方が活きるために、村を閉鎖することがこれからの答えになるんじゃないか」と。

十日町に住んでいなかった当時はその言葉の意味が、全くといっていいほどわからなかった。

無知というのは、否定も肯定もできない怖いこと。青と赤という定義を知らなければ、信号の青(すすめ)と赤(とまれ)の意味が理解できないのと同じ。

そのズシンときた言葉の意味が、青や赤に当てはめられないくらい、理解できなかったわたしだったけれど、頭にこびりついてとれなくて、十日町にきてからも考え続けていた。

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「殺生は良くない」と言いながら、「命をいただく」矛盾。

 

この土地に住んでから、「矛盾」と向き合うことが多い。それは、「自然」や「人」との接点が都会より濃くなったから。

その「矛盾」を言語化するならば「殺生は良くない」と言いながら、「命をいただく」ということ。生きていくために「絶対にしなければいけない」ことなのに、人間には「感情」がある。「愛情」がある。命に対して「慈しみ」がある。

人は「それら」があるから美しい。けれども「生きていくため」には「それら」が「矛盾」になる。

やっかいだなぁとも思う。その生じる摩擦が、脳みそを稼働させ、「知恵」を生み、「哲学」を生み、「正義」を生む。やがて「個性」にもなる。

わたしたちは生きているだけで「矛盾」と常に手をつないでいる。「生きること」というのは常に「思考」と「自分との対話」の繰り返し。

人の「オーラ」がそれぞれ違うのは、その「矛盾」と繰り返し向き合ってきたからなんじゃないかって思う。今日はその「矛盾」と今一度向き合ってみたい。

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人は「思考」があって、「自分との対話」ができる生命体であること。

 

都会では「働かないと生きていけない」という漠然とした恐怖が、人を半ば強制的に「労働」へと導いていた。当時を振り返ると「生きていく」ということが、「狭い意味」でしか捉えられなくなっていて。

ご飯を食べて、睡眠をとって、趣味というものがあって、それらを賄うために働いて。全てを循環させる大元のエネルギーの基準は「お金」だった。

いつも目的は「お金」をいかに使うか。「お金」から枝分かれした先に「生活」があった。「生活」のための「手段」が「お金」なのに。

「創る」ことを忘れ、ひたすら「消費」するだけの生活だったから、心はどんどんと死んでいった。「消費」にひたすら依存する世界に入り込んでいったから、「子供心」という「創造と想像を好奇心だけでやってしまう」無垢なものから遠ざかり、「大人」にもなりきれない、生き物だった。

わたしたち人間は「思考」があって、「自分との対話」ができる生命体。地球上で唯一だとすら思う。(もし他の生命体であったら教えてください)その「人間としての機能」は「何かを生み出す」ことが本能的な喜びなんじゃないかって。

俗にいう「クリエイティブ」はなんだかオシャレな「呼称」だけれど、「クリエイティブ」という言葉はもっとハードルが低くなればいいのになぁ、といつも思う。突き詰めると「クリエイティブ」はスポットライトが浴びるようなキラキラしたところだけでなく、「地味」で「孤独」な作業の繰り返しだ。

こうして、「思考」を「言語化」するのも「クリエイティブ」であって、「自分で何か生み出す」ことが「個」を成していくんだなぁと思う。こうして文章にすることは「パソコン」と「自分との対話」だから正直、ものすごく孤独だけれど。それも何時間も気が済むまで。

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東京に住んでいると、「お金」があれば大半のことが「なんとかなってしまう」

 

不幸なのか幸なのか、いまだにわからないけれど、都会の人の大半の価値基準が「お金」だったから、野菜の生産者さんの顔を思い浮かべるというのはほとんどなかったし、「お金」があれば、不便さも、生活も、”お金でなんとかなってしまう”ということが、「当たり前」だった。

手間暇かかっているものを見ても「ある」としか感じなかった。その物質の「なぜ?どのように?ここに?」の疑問をショートカットさせる。「ひとりでどうにかして生きてる」勘違いもよくあった。だからこそ常に言い知れぬ寂しさと向き合ってはいたけれど。

情報量の多い現代では「捨てること」「ミニマム」などがやたらと流行るけれど、「疑問のショートカット」は人間の本能を衰退させる怖いものだと思う。

わたしが「疑問」に素直に向き合うようになったのは、自分が生まれたことをただただ肯定したいという気持ちの行き着いた答えで、「疑問」は自分を「肯定」させる大切な宝になった。

「体験」「感動」「出来事」「人」に、視点が傾き、「何が”自分にとって”楽しい生き方か」に真剣に向き合うようになった。「自己完結型」から、自分以外の外側から「学ぶ」というスタンスへとアンテナが変わっていった。

お金が発生しなくても「自分」のアウトプットと、「読んでくれている人が何かを感じてくれていること」が「自分」のためになっている。「人のため」という「きれいごと」でまとまらないことが嬉しい。もっと「自分」のために生きることは貪欲でかまわないという許可が、わたしの「生き辛さ」を癒していく。

「仕事を創る」という方向性もこの延長線上にあるんだろう、と思っている。「お金」から枝分かれしていたものが、枝分かれしたものの後に「お金」がついてくるようになる。

「七転び八起き」を楽しむこの土地から、わたしの視界がよりクリアになっていく。

本質的な願いはだんだんと「個が互い違いを尊重できるように、能動的に。」が濃くなっていく。

 

「限界集落」の脱却が”地域おこし”なのか?

 

本題に戻ってみる。

「村を失くさないために、人口流動(移住者を増やす)で限界集落を立て直すことは、正しいあり方?」

高齢化、少子化、人口減少。この三重奏が日本の時代を変化させていく。わたしはそういった社会構造の勉強は中学生からストップしている。興味のあることしか勉強をしたくなくてバイトばかりする「わかりやすい」しくみにすぐ食いつくような性質で「意識高い系」と呼ばれるものとは疎遠だったから。

(余談ですが、トンがった靴を履く人も未だに苦手。)

けれど、この仕事をしていると社会構造を数値化したりすると、いろいろな発見があっておもしろいから、人口資料とかちょっとした論文を少し覗くようになった。

現在地域おこしで注目されている事例が「限界集落」からの脱却。


▼限界集落とは

山間部では集落を構成している人口の50%以上が65歳以上で、農作業や、冠婚葬祭などの集落としての共同体の機能を維持することが限界に近づきつつある集落と呼ばれたりする。


 

わたしの住んでいる飛渡地区の池谷集落がまさにこの事例。

十日町市地域おこし実行委員会 池谷集落HP

目に見えてわかりやすい数値化されたもので挙げるとすれば、「出産」「子連れの移住者」による「高齢化」の「平均年齢下げ」。

池谷集落は、そんな表面的な事例だけがスポットライトを浴びているわけではなくて、「村の人の想い」が「実現」していっている結果が、「限界集落」の脱却だったということ。

それが、「地域活性化」に至っていたということ。

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集落のそれぞれのカタチにあった”地域おこし”を

 

つまり、「村の人の想い」は様々であって、「村の存続を望んでいるのか」というところが大前提だということ。そして「存続という形は、一体なんなのか?」というところに矢印を向ける。

「この村にある資源に触れて子供が育って欲しい。わたしもここで育ったからこその今があるから。」→だから、移住者や子供が増えて欲しい。

「この土地の農業や伝統をつないで欲しい。自分の愛する土地を継承して欲しいから」→だから、若い人に来て欲しい。就農者や雇用を生み出して欲しい。

「人は住んでいなくても、景観だけは残していけるよう土地のサポートやインフラを整備して欲しい。」→だから、経済潤沢や、外部の支援が欲しい。

村の数だけ答えがあって、人の数だけ想いも変わる。”地域おこし”の「事例」はコピーや真似っこだけで形を成すかというとそうもいかないから、その土地に暮らす人の「望む形」と「広い視野」が必要になってくる。

 

地域の人が「村の存続」を望んでいなかったら?

 

例えばこんな話があったとしたらどうするだろう、と考える。

「身体が不自由になってきたから、病院へいく交通の便のサポートを頼みたい」こんな声が増えたとして。そこは限界集落で。

けれど村の方達は自分の村に愛着があるわけではない。引っ越す土地もないし、もうここで「生涯を終えるしかないから」という「やるせない」想いがあったとする。

そういったとき、この村の方達の「交通の便のサポート」だけで終わっていくのならば、病院のある市街に住まう制度を発足し、「村の閉鎖」が結果として、「村の人たちの人生を豊かにする」という答えがあるのかもしれない、と思ったり。

また、人口減少の時代、誰かが移住すれば、移住先は豊かになるかもしれない。けれど日本全体で見たら、移住前の土地には穴があくことになる。(都会は人口が突出しているから話は変わってきてしまいますが)

そうなってくると「魅力見せびらかし合戦」で「移住者」の奪い合いをしてしまったら、日本全体で見たら「未来につながるカタチ」になっているのかよくわからなくなる。

 

だからこそ、「自分」のしあわせの「あり方」と本気で向き合う時代へ

 

そう、いろいろ考えていくと解けた知恵の輪は、何度も何度も絡まったりする。何度も矛を持ち続け、盾で身を守り続ける。「矛盾」はそっと、寄り添い続ける。人に「思考」がある限り。

地域おこしの最終的な形は「人がそれぞれの幸せを自分で選び、見つける」ことの手段が「土地に住む」ということにつながる時代に促すことが大事なんじゃないかって。何十年後かには地域おこし協力隊がなくなる世の中へ。(自分の仕事なのにこんなこと言ったらこれこそ矛盾・・・?)

 

「心の声」に敏感になること。既存の形にとらわれないこと。その芽を育てること。

共に「考える」教育の部分。能動的に動く「自立」。何回転んでも、何回でも人生立ち上がれるんだっていう背中たちが教えてくれること。

「職業を選ぶための学校」という手段から「自分という資源の生かし方がわかってくる学び舎」へ。「与えられること」を体育座りして待つことから「自分も人に与えることができる」というしなやかな人間へ。

 

最後に

 

いろいろと深く考える今日だったけれど、ふと、ひとりで暮らす家の寂しさに冬は大丈夫だろうかと不安になったり。都会の時のアパートとは違う寂しさが、襲ってくる。

そこにパン工房ビットのオーナーである、友達のたーさんが新潟市に友達のケーキ屋さんに遊びにきているらしく突然会えないか連絡が入る。「こら、前日に言いなさい」と思ったが、彼女らしくて笑えてくる。

仕事の調整ができなくて結局会えなかったけれど、無邪気な写真がきて癒される。

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「写真使ってもいい?」と聞くと、「他にもあるから」と何枚も送られてきてふとまた口が緩む。

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ありがとう。たーさん!

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能力の限界は希望であって、限界を知ることで「やりたいこと」の叶えるスピードが加速する。

「時間が足りない」といつも思ってしまう程、1日を駆け抜け、気づいたら夜を迎えている。自分の中では戦略的に動いているつもりが、から回ることがたくさんあって、腑に落ちないこともたくさんあり、反省する日々を繰り返している。

けれども、楽しいことの割合の方が圧倒的に多くて、関東にいた頃より「こうなりたい、こうありたい」というものが、より明確になったことで「有意義」という言葉の意味に納得できている。

実現できるという自信が100%あるかと問われたら、首を縦に振ることに不安はあるけれど、協力隊の仕事と平行線で「本間小百合の人生」のビジョンの方向性もざっくりと決めている。

就業せずに、起業すること。

自分の得意なことと好きなことを死ぬまでやり続けるために、「起業」が手段だと思った。

わたしはこの町に来て、本当に変わった。

 

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自分を愛したいし、可愛がりたい。

 

「起業する」なんて関東では絶対に口には出せなかった。会社に属す道に安心感があったし、自分で事業を回すなんて自信もなかったし、「達成できなかったこと」のイメージが大半だったから、心のタンスに大事に大事にしまっていた。

東京という人口密度は、「比較」で生きることを頑張れた特殊な土地だったし、「比較」でエネルギーを消耗する逆も然り。

人が密集しすぎると、「多数決」が採用され続け、「少数派」は「変」という扱いにされがちだったから「心を隠す人」が増え続けるんだろうと思う。「心を開く」ことが人生をより良くするものなのに。

また「起業」への道のりは、ビジネスの方向性を常に考え続け、それに見合ったインプットとアウトプットを任期中にひたすら繰り返し、お金の循環を自分で作り出して、自分で責任を持つことが大前提。

こうして言葉で表現したら堅苦しいことのように思えるけれども、自分の中にある芽をどうやったら育つのか、どうしたら花が咲くのかという、人間として「当たり前」の根底の部分と対峙する作業を繰り返し行うシンプルなこと。

そのためには好きなことと、生まれ持った得意なことをやり続けること以外の方法が思いつかなくなってきたからこの答えに至ったのだと思う。

 

「好きなこと」と「才能」は別物であること。

 

前者は「ついやってしまう」こと。後者は才能と呼ばれ「意識」しないでもできてしまうこと。

「ついやってしまうこと」と「才能」が重なるときのパワーは、人をとてつもなく輝かせる。そこを見つけることが楽しくも困難でもあるかもしれない。

生きていく中で、「才能」と「好きなこと」の重なり合う部分が一生同じとは限らないから、見つめ続けることで「変化」という名の成長ができ、「変化=気づき」は自分の心と常に対峙すること、出来事に対峙することで収穫ある実りだと思う。

「才能」を優先するときもあるかもしれないし、「好きなこと」を優先するがために苦しいこともあるかもしれない。

逆上がりを1000回やってもできない子が、鉄棒が大好きだったら、1,001回目でできるかもしれない。

それを「苦しい」と呼ぶのか、「楽しい」と呼ぶのかで、人生は180度変わるんだろうなと思う。

それだけ「好き」の熱量はすごいし、「才能」は自分発掘をしていると、いくつも原石があったりするとてもおもしろいもの。

仕事を「創る」にあたって、「好き」と「才能」の重なる部分を探り続けることと、それを「お金」として価値を生み出すことは、なんだかとてもワクワクする。

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「好きなことがわからない」は本当?

 

「好きな自分でいつまでもいたい」というシンプルな願いが、消去法という方法で「仕事を自分で創る」という道を歩かせる。「あぁ、これを進むか、進まないかだけだったんだなぁ」と十日町に来て、思う。

よくこの道が、「わからない」と相談されることがあったし、関東に住んでいた頃はわたしも「わからない」側の人間だった。

なぜ「わからない」側だったのかと思い返してみると、「進みたい道」はわかっているのに、ただ怖くて「進めなかった」だけだったから。

また、「あいまい」ということが「いけない」ことだと思っていたから。

「あいまい」につきものなのが知識、技術、自信がないと「その道に進むことはタブー」と自分に刷り込み続け、「本当はこの道に進みたいけれど3点セットのどれも欠けているから、”とりあえず今のまま”でいいや」と惰性に甘え続ける。

”とりあえず今のままでいい”は、「楽」に変換できる都合の良い言葉だった。

3点セットは、”とりあえず”にドンドンと吸収されて育たなかった。

結果として「好きなことがよくわからない」と言っていたいた方が、「保身」には都合が良かった。「好きなことで食べていけたら」は、言ってはいけない気がした。「あいまい」だったから。

今では「あいまい」なままでいいから、「やる」と決めている。

3点セットは「やる」の後にしかついてこないと気づけたから。人に「あなたは何がやりたいの?」と言われ続けても、道の途中だから目の前の自分で決めてやることに全力で取り組めばいい。

その繰り返しの先のビジョンを「願う」のではなく「信じて」あげることを大切にしている。

今はこれが「自分を愛す」ということの位置付けなのかもしれないと思っている。

 

「仕事はどんなことをしてるの?」困ってしまう、その質問。

 

「仕事は何をしているの?」

こんなよく投げられる球に素早く投げ返したいと最近はよく思うけれど、ひとつの回答にまとまらないと「優先順位がつけられていないんだな」と落ち込むこともしばしばある。

「地域に入る」が今は仕事だから、例えば「高齢者サロン」のようなものに顔を出すのも活動のうち。

けれどなんとなく「目に見える形の仕事」として説明ができないのが、なんとなく悔しい。そんな悔しさに相まって、「説明できる仕事」をなんとか作ろうと自分を追い込み続ける。

 

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若手農家さん取材風景

 

たぶん協力隊に入ったばかりの人の多くが、そんなもどかしさを感じているのではないかとも思う。

「焦らないでいいよ」という言葉の「やさしさ」を感じつつ、1ヶ月、2ヶ月という時間がとても早く過ぎていくので、「目に見える形」に早く変換したいから仕事を頑張る。

ただ、「目に見える形」を焦りすぎると、「地域に溶け込む」というバランスを見落とすから、今はその中間地点を手探り状態。

 

自分の限界を知ると、人に頼れるようになる。

 

思ったより早くビジョンが出来上がったので、「協力隊としてのわたし」と「ただのわたし」のふたつの道はどちらもスタートしている必要があり、その道筋は、完全に分断されているかというとそうでもなく、道が交差するところもあるし、全く別の道のときもある。

 

そうなってくると、たくさんたくさんやりたいことがあって、いつも頭の中は大騒ぎ。

一見、「やりたいことがたくさんある」というのは、羨ましがられることかもしれない。けれども前記事で書いた通り、「物事には必ず裏と表があって、両面を理解して答えを出す」ということの大切さを感じている自分には、この落とし穴に、いつも落ちそうになる。

人一人の1日という時間は平等に24時間。これ以上でもこれ以下でもないのに、やりたいことと求められることの優先順位の決定を後回しにしていると、24時間を頭の喧騒に邪魔されて、身動きがとれなくなる。

だから「得意ではない仕事」は「やりたくないです」と伝えるようにしている。(トビタリの皆さん寛容でありがとうございます)

 

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チームバランスを見てくれている横澤さん

 

24時間の限りあるパフォーマンスを最大限発揮していたいし、「その仕事はわたしでないといけない」というわけではないので、かなりお任せしている。

(”チームで仕事する”という視点ではこれの度が過ぎると良くないけれど)

わたしよりすでにその仕組みに慣れている人が継続していた方が、より高いパフォーマンスを継続できるならば、基本だけは覚えて、あとは頼らせてもらっている。

 

最後に

 

自分の中でこれを「やりたい」と口に出していると、気づくとその糸口が次から次へとやってくる。本当に不思議なことで、十日町にきてから「やりたいと思っていること」の実現できるスピードが半端ない。

それは人との出会いにも起因している。人とつながることでどんどんと、具現化していく。つまり、「自分ひとりの力を過信しすぎない」ということ。

どうあがいても、わたしひとりの1日は24時間でしかなくて、ちっぽけで非力な存在だ。けれども誰かの1時間をわたしの「やりたいこと」に協力してもらったら、「やりたいことに費やせる時間」は、25時間になる。

それが一人、また一人と増えるだけで「やりたいこと」の叶えるスピードは圧倒的に早くなるのは必然で。

そんな世の理的なしくみに気づくのに、24歳になってしまい、少し遅かったのでは?なんてことも思う。笑

「ひとりでがんばらないでいいよ」というのは、「やさしさ」って呼ばれる言葉かもしれないけど、「事実」であり、「一番の近道」である素晴らしい言葉だと思う。

 

 

 

 

 

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「定住が成功例は本当?」東京の良さ、地方の良さから見える本質について。

現在わたしは山形県米沢市にいる。母方のおじいちゃんの十三回忌で呼ばれたのでGWに休みをいただいた。

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米沢牛すきやき

 

去年のこの日は、JAPAN JAM BEACH のフェス会場にいた。当時は千葉の稲毛にアパートを借りて住んでいて、稲毛から幕張まで自転車で30分かけて会社に通ってた。

大好きな会社の先輩夫婦の家も近くにあったので、泊まりに行ったりして、あのときはあのときで、楽しい日を過ごしていた。

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JAPAN JAM BEACHに会社の先輩ふたりといった時

 

 

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稲毛に住んでいたときの新築のアパート時代

 

話を戻すと、お葬式でもなかなか揃わなかった親戚が、おじいちゃんの死後13年目という時を経て、山形という土地に引き寄せられた。

いろいろな思惑を越えて。

 

兄妹同士の確執の傍ら、集う思い

 

母は5人兄妹の3番目。「5人兄妹」というと、にぎやかで仲睦まじい聞こえではあるけども、お金や土地がらみで兄妹同士に昔から溝があった。

わたしが小さい時から、上記のトラブルから母の妹家族(大好きなおばちゃん一家)しか関わりがあまりなかった。

今回のおじいちゃんの十三回忌は、おじいちゃんの魂が何かを伝えるかのように、5人兄妹が何十年ぶりに顔を揃わせ、子供、そしてその子供たちが集結し、「おじいちゃんのDNAは確実に歴史を作ったんだなぁ」としみじみと思った。

今この身が新潟で動けることも、自分の意思で何かができることも、先祖のおじいちゃんおばあちゃんなしでは存在できなかった。

新潟に来たとき、家族という存在を見つめ直すきかっけをもらったので、おじいちゃんに感謝したくなるという不思議な気持ちが生まれたと同時に、十三回忌の話が決まったので、不思議なタイミングに、「絶対に行こう」と思った。

そして今日やっと、お墓に「ありがとう」と手を合わせることができた。

千葉に住んでいたので、山形にいるおじいちゃんとの記憶はほとんどないけれど、土地に刻まれた歴史は死んでも尚、わたしたちが生き続けることでおじいちゃんの歴史を紡いでいる。

 

兄が代表取締役になっていた。

 

今回の集まりで一番驚いたのは、兄が日本でいう「社長」になっていたこと。笑

兄は大学受験に失敗してから何年もネットゲーム依存症で引き込もり、わたしが心底苦手とする相手でした。

けれども、大好きなおばちゃん一家のいとこがベンチャー企業の幹部で、業績好調とともに人手不足になり、兄を誘ったことがきっかけで、兄を社員として雇ったのが去年の10月。

現在は会社を分けて、いとこも社長となり、兄も社長になったとのこと。ふたりともとっても生き生きしていた。

なんちゅうスピードで、本間一家とおばちゃん一家は変化し続けるのだろう、と思った。(自分含め)

わたしは家族に対してハリセンボンみたいに、膨らんでトゲを出して未だに威嚇しているけれど、千葉と新潟という物理的な距離は「さみしさ」から「愛しさ」に代わるのかもしれないと思った。

わたしの家族の愛し方は、離れることで形を成すのかもしれないなぁ、という希望が湧いている。

母の日と誕生日には毎年あじさいを直接渡していたけれど、今年は郵送の予定。あじさいが大好きだと言っていた母を、花屋さんであじさいを見るたび思い出す。

 

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「ここには何もないから」という母。「ここにはたくさんある」と思うわたし。

 

米沢に来たら、寄らずにはいられない場所「上杉神社」。お墓参りが終わった後、時間ができたのでふらっと家族で行ってきた。

歴史マニアにはたまらない場所かもしれないけれど、長い時間がつぶせるような場所ではないかもしれない。

けれどわたしはこの場所が大好きで、口をパクパクさせながら餌を求める鯉を見てると、時間が経つのを忘れ、住んだことのないこの土地を、ちょっとした故郷だと思う錯覚が好きなのかもしれない。

そこにつぶやく母、「ここには何にもないよ・・・」

出た。地元の人が口を揃えて言う「何にもない」という土地への謙遜。

思わず口が出てしまった。

「たくさんあるよ。地域おこし協力隊をしていると、お母さんの目線もわかる。新潟にも”何にもない”っていう人がいるから。だからこそ、その土地その土地に新しい目線(移住者)が必要なんだと思う。」

「そうね・・・」と、淋しそうにつぶやく母。

長い間土地に足を付け続けていると、「ある」ものが慣れて、「ない」と思う時がある。恋愛でも、結婚でも、「慣れ」で見えなくなるものが出てくるのが、人の性。

その性を否定するのではなく、「それならばどうするか」が、大変でも楽しくもあるのが生きるということだとワクワクする日々。

 

Uターンから、”Wターン”、働き方をさまよう人たち

 

山形では東京から戻ってくる人も多いと、いとこがいう。

「30歳くらいになると、”東京で疲れた”と言って戻ってくる子が多い。だけど”仕事がない”といって再び東京へ行く子もいる。で、海外行ったりとかも。」

わたしのなかで、「Wターン」という言葉が生まれた瞬間だった。

十日町では、関東程の賃金まではないけども、働き口は「公の場=ハローワーク」などでもある方。裏ネットワーク(いわゆる口コミ、人づて)の働き口も、地方コミュニティーでアンテナを張っていれば、仕事をもらう珍しくない手段でもある。

けれど山形県米沢市での仕事探しは、東京でいうタウンワークの「一ページ」ほどしかないというのが現状らしい。「働く」ということが、東京にいかに集中しているかという、やるせなさを感じた。

「企業に属す」以外の生き方は日本中のたくさんの人が注目している。

そして希望でもあるかもしれない。けれどそれを他人に委ねてしまっている時点で、その人の成長という芽には肥料や水や日光は与えられない。

たとえ誰かが「企業から属さない」という道しるべを作ったとしても、「自分で選んで、自分で決める。」という土台がなければ、道しるべは単なる学校の授業に成り下がり、卒業後に「どうすればいいんだ?」と迷ってしまうだけの末路なのではないか。

ひとつの「自立した働き方」のモデルケースを作ることはもちろん大切だけれど、「人間として」のあり方が問われるのが今の時代のテーマなんじゃないかと思う。

 

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人としての在り方が、地方を変えていく

 

人の成長を促す大きな肥やしは「信頼」だったのだと気づく。

わたしは両親にたくさん放置されてのびのびと育てられた。放置と信頼はわかりづらいけども、年齢を重ねた今では「放置ではなく、信頼だった」とうなずける。

中学生の時から「大学進学ってなんの意味があるのだろう」と世の中なめた子供だったけれど、今でもその思想は好きだし、大学に行く人を否定するわけでもないスタンス。

学歴を誇る人や、地位や名誉にすがることも、ある意味では生きるために「自分で選んできている」算段だ。

わたしは高卒で学歴もないけども、「自分で決めて、自分で選んできた」というのが確かな自信を育んでいる。

 

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だから、いま、新潟県十日町市という土地に飛び込んでいる。

自分の生き方はキラキラした土台から飛び降りたのではなく、擦り傷だらけで歩いてきたからこそ、今がとても楽しい。

「一般的な生き方から外れた」ことで、”当たり前に疑問を持つ”というのが、とてもとても大切な心地良い風だと思っている。

「当たり前=慣れ」へ向かう「疑問」という矢印は、ぶつかることはなく、優しく溶け込みあうもの。

まだまだわたしの考えは、地元の人に拒否されてしまうかもしれないけれど、土地に根を張っている人たちに”疑問を育てる”というあたらしい風になりたい。この土地で。

地方には、「この土地で、自分の力を活かしながら、何かをしたい」という、心根が素晴らしい人たちがたくさんいる。

わたしが東京で働いていたときは、そんな気持ちになったことは一度もなかった。

 

「定住」が地域おこし協力隊の成功例というよりも、「心」が変わるから地域が生きる

 

新潟に来た今では、東京の利便性の良さや、「人としての距離感=干渉しあわない」良さなども、良い所にたくさん気づく。

だから「定住」は地域の人には良い意味を孕んでいることはもちろんだけど、”当たり前=慣れ”という土地の良さを遠ざけてしまう恐怖も付きまとっている。

また、「定住」という言葉が蔓延ることで、「移住」のハードルがあがること、「土地に根を張ることが地域貢献」かのような選択肢の視野を狭める可能性のある言葉だとも思っている。

そこに市役所の高橋さんの印象的な言葉を思い出す。

「地域おこし協力隊の皆さんは、”今そこに住んでいるだけでも”ある意味では既に地域貢献。退任後に新潟から離れても、”十日町を宣伝する営業マン”がたくさん増えていくだけでも、良いという捉え方もしています」

と言っていて、退任後も”地域に住み続けてほしい”というのは大前提であるけども、わたしには高橋さんの地域おこし協力隊のそういう肯定の仕方が、心の柔らかさを生んで「地域おこし協力隊の成功例」として有名なんじゃないかなぁと思った。

日本は統計が大好きだから”十日町市の地域おこし協力隊の成功例”というのが、定住率約75%という数字でよく取り上げられるけども、地方というフィールドは「自分で決めて、自分で選ぶ」ことが都会より、たくさん用意されていること。「自己決定」を積み重ねていくこと。人としての「自信」や「誇り」を育てられる大切な宝物が、散らばっていることが地方の魅力。

そんなことを、山形に来て、なんとか文章にしたいと想い、ホテルでひとり4時間ほどパソコンにかじりついたのでした。(ほんとは別の仕事をやる予定だったのに・・・)

明日十日町へ帰ります。愛しい土地へ。

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わたしの移住のテーマは「自分の生き方を創る」〜メディア出演して、感じたこと〜

十日町の街中の飲食店さんへ山菜の出荷とともに、ご挨拶へ伺う。

「あ!あなた、テレビに映ってたでしょ!」

 

「・・・え?・・・わたしが!?」

 

ハッ。

そうだ、わたし、昨日テレビに出てたんだっけ。取材された日々が頭の中で回想される。

十日町の方だけでなく、新潟県全体でわたしが十日町に移住するまでを、テレビで見てくれているというのだ。あの四角い液晶に自分が動いめいているかと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしい。

わたしは去年の年末からかなりの頻度で、密着取材をされてはおりましたが、カメラに映るのがとっても、とっても苦手なんです。

インタビューも、どもってたことと思います。笑

写真を撮られるのも、とっても苦手です。(最近は、腕のいいカメラマンたちに助けられているために、やっと写真に写れるように。)

 

女の子たちがよくやるアレが未だに苦手です。アレですよ、アレ。

「写真撮ろー!!」

スマートフォンのインカメラを、おもむろに手慣れた手つきで構図をとる、女の子たちのアレ。

(笑顔って、頬っぺたをこう、引き上げるんだよな・・・。わたし八重歯、イカツイからあんまり笑わないでおこう。そして、隅っこでなるべく映らないように・・・。)

 

そうです。

今時、女子、ちゃいますねん。思いっきり、根暗女子ですねん。

 

透明のレンズが「こっち見て!」って呼ぶんだけど、自分のありのままの姿が映ると思うと、怖くて怖くて逃げたくなる。

 

それなのに、なぜ取材を受け続けたのか。

それにはわたしなりの「伝える」の入り口を、手繰り寄せている途中だったから。

何にもすごいことをなし得てない、自信のないひ弱なわたしだからこそ、飾らずに伝えるべきだと思ったから。

取材もひと段落したので、軟弱だった移住前と今を、振り返ってみることにしました。

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新潟移住前に「二つだけ」武器を持つことができた。

 

テレビの放送が終わった後は、わたしの特集を担当してくださってる記者さんからDVDがいただけます。

ありがたいことです。

そこに至るまでには、”本間 小百合”という人物を「伝える」という、記者さんの仕事があって。

いつも担当してくれるカメラマンさんもとても面白くて、現場を和ませてくれて、撮影の合間に雪を丸めて投げたことも新潟移住前の楽しい思い出になっています。笑

お二人の仕事は、時間が不規則で相当大変だと思います。

 

記者さんはわたしの活動や予定に合わせて、千葉に取材に来てくださったことは一度や二度ではなかったので、「はるばる、なぜわたしを・・・」と思ってもいました。

「移住する人なんて、日本中にたくさんいるし、新潟にもすでにたくさんいらっしゃるはず・・・」

と、思ってもいました。

それでもたった一言記者さんが「ほんまさんのブログ、すごくいいと思います。”等身大”っていうタイトルも」と言ってくださって、

「あぁ、こんなひ弱で、肩書きすら何にもないわたし”だからこそ”伝えられることがあるんだ」って思って。

初めてその時、「言葉」と「感性」を武器にできるんだと、気づきました。

自分の繊細に折れそうになる心に直面する度に、「強くなれ」と「強くあれ」と鞭を奮っては、言葉とは裏腹に、対に向かう繊細な感性を「弱くて、だめなやつだ」と、コンプレックスとして感じてきたんです。

 

それをブログやSNSで”アウトプット”することを始めたら、コンプレックスであった感性や気持ちを、様々な人から「考えるきっかになった」「勇気が出た」などと、メッセージなどをいただけるようになったのです。

 

 

計4回のテレビ放送をひとつも見れない自信のなさと、情けなさを感じても、伝え続けたい。

 

そんな、大事な武器に気づかせてくれたにも関わらず、未だにわたしは4回も放送していただいた、DVDの内容を一度も見れずにいます。

自分自身に、まだまだ全然自信がないから。

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インタビューも、うまく言葉にできなくて、すごく悔しい想いをして、毎回取材に望む。

いいこと伝えようなんて思ってない。

けれども、頭に浮かんだ単語は、頭の中にパチンコ玉のように弾かれて、単語の端々を掴めそうで掴めないもどかしさが、自分の中での悔しさと罪悪感にも似た気持ちと摩擦させる。

顔は笑ってるのに、心の裏側ではちぐはぐが多くて、自分に嘘ついたんじゃないかって、帰って一人になると喉の奥がえぐられて涙が出そうになることもしばしば。

新潟に移住されてる、パワフルで素敵な方達を見ると、自分のちっぽけさが丸裸になる気持ちも出てきて、「わたしに一体何ができるんだ」と、「出ました!卑屈さん!」と思いながら、体育座りして、ぼーっとしてたい時なんてしょっちゅうあります。

それでも、特集を組んでくださるテレビ新潟の記者さんが、熱を持って、取材してくださる。

それを見た視聴者の方が応援してくださる。

ブログやSNSを見て、いろいろな感想をいただける。

わたしには「発信」をしながら、「伝える」ことができるんじゃないかって、少しずつエネルギーの芽が育って行く。

”地域おこし協力隊”としても、”本間 小百合”としても、わたしは「伝える」を仕事にしたいな、と、もやもやしていた「働き方」が掴めそうになっている。

自分の生きてもがいた日々が、言葉になることで、誰かに届けられること、誰かの心を揺さぶれること。

これはわたしにできることのひとつなんじゃないかって「移住」をしたこと、一歩踏み出して「発信」をしたことによって気づいたのです。

 

”地域おこし協力隊”としてのわたしと、”本間小百合”としてのわたしのバランスの取り方

 

”地域おこし協力隊”は公務員。

公務員としてのわたしと”本間 小百合”としてのわたしとのバランスは、未だに課題でもあります。

テレビ取材もその兼ね合いで、難しい面があり、悩んだりもしました。

実際に”地域おこし協力隊”は楽しいことばかりではないです。

村の方や地域の特性など、ひとつひとつ知ることから始めなければならないため、”本間 小百合”としての時間の捻出が課題にもなって、睡眠不足の毎日です。

その中でも最近は大事なことを掲げました。

「やれること」をしながら、「やりたいこと」をやる。

この徐々に移るシフトチェンジが人生を豊かにするということ。

「やりたいことがない」という人は、「やれること」を飛び越えてる人が多い。

「やれること」で自分を育てて、足腰鍛えたら「やりたいこと」に挑戦してみる。

自分の力の育て方を、霧のような「やりたいこと」に費やしてはもったいない。

”ある”もの探しは、今目の前から始めること。

 

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”「想ってること」はアウトプットしなければ「死んでるのと一緒」”が腑に落ちた瞬間の変化

 

楽しかったこと、

しあわせだったこと、

悔しかったこと、

泣きたかったこと。

 

これらが全て”感じる”ことであり、”生きる”こと。

”生きる”を肯定するには、どんな感情であろうと、まるごと全部自分なんだと、受け入れること。

わたしは、こっぱずかしい青臭い部分ですら、文章として書き残している。

誰かに届けられることを信じながら。

自分一人の自己満足のためのブログから、誰かに「届ける」ことを目的とした、「発信媒体」にしようと、試行錯誤して「伝える手段」をもっとかき集めたいとも思っている。

テレビ取材のおかげで、様々な方とご縁を繋いでいただき、住む土地を変えるだけで、自分の内側のあらゆる感情に気づくきっかけをもらい、結果として「変化」という大きな成長をいただけた。

わたしの移住のテーマは「自分の生き方を創る」です。

「生き方」を創るには、青臭い部分と向き合いながら、わたしの言葉を読んでくれる人の「違和感」と「疑問」を解いていくお手伝いをしたい。

そのためにはわたしが、”等身大”であることを優先することにして、人してのやわらかさを育てていきたい。

 

 

そんなこんなで、この場を借りて、いつも応援してくださる皆さま、お礼をさせていただきます。

本当にありがとうございます。

メッセージひとつひとつ読ませていただいております。

 

これからも新潟県と十日町市と飛渡地区と各集落の良さを伝えていき、「生き方」をテーマに「発信」を続けてまいります。

 

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「わたし」が地域の人からありがとうを貰うのではなく、「地域の人が」ありがとうを貰う、土地作りをしていきたい。

 

”十日町地域おこし協力隊”

“飛渡地区”

 

この言葉を知っている、日本人は一体どれくらいだろう。

 

わたしが十日町市の地域おこし協力隊として活動する「地区」が”飛渡地区”となります。

十日町市の地域おこし協力隊の面接を受けた当時、12地区の募集があり、区によって資源、人、環境、それぞれが異なっています。
東京都23区に個性という色があるように、十日町市にも地域、地区に個性という色があります。
そんな地域の色と、協力隊応募者のマッ チングをするのが、地域おこし協力隊の面接の場でした。

 

いうなれば、”土地との合コン”

面接というよりは、そんな表現が一番しっくりくる。

そんな”土地との合コン”あなどるなかれ。

十日町の地域おこし協力隊というのは、土地を愛する人たちが、懸命に取り組んだユーモアと愛が溢れる制度だ。

 

「地方」に住みながら、自分の「生き方」を見つける手段が、「地域おこし協力隊」

 

地域おこし協力隊の面接の日。
2月の中旬。

 

面接として案内された場所は、広い会議室で、地域の人たちのワクワクに満ちたエネルギーが溢れた会場だった。

 

面接というものは、「圧迫、緊張」という単語をイメージしがちだけれど、「歓迎」という文字が隠せずにはいられない、常識を覆す場だった。

会場には協力隊応募者がわたし含め10名おり、「わたしはこんな人」という3分程のスピーチがあった。

10名それぞれが、この土地に引き寄せられた経緯を話しだす。

 

家族を連れて来るという方。

地元である十日町を離れたことでこの土地の良さに気付いたという方。

農業をやってみたいという方。

「じっくりインタビューしたい!」と思うくらい、興味深い人ばかりだった。

 

こんなにも土地を愛す人がいるということ。

”十日町”という土地は、すごいんだなと、この時感じた。

 

わたしの自己紹介はというと、応募者の中ではとても異色で、十日町には縁もゆかりもなく。

十日町に住んでいる「佐藤可奈子さん」の生き方に感銘を受けたこと、

テレビ取材を受けたことで、「生き方」を見つめ直し、「移住」という手段を見つけたこと。

アートにつながる仕事を創りたかったから、十日町がたまたま「アートの土地」であったこと。

などを、懸命に伝えた。

 

こんなに自分を飾らずにアピールした面接は初めてだったと思う。

それは、「地方に住みながら自分の生き方を見つける」ということを「決めて」いたから。

「決める」ことで、頭の中の会議(いわゆる雑念)が静まり、目の前の「今」に全力で望めた。

 

今まで散々迷って目の前の出来事をこぼしてしまうことが多かったのは、「決める」ということを避けてきたのだと、「移住」を決めたことで、視界がクリアになったことを感じることができた。

 

ダンディーなおじさまのプレゼンテーションに心が躍った

 

応募者のアピールが終わった後、12地区それぞれの「やってほしいこと、求める人材、地域資源」のプレゼンテーションが始まった。

ここでワクワクが止まらなかった、とあるプレゼンテーションに釘付けになった。

 

「えー、飛渡(トビタリ)地区では・・・」

 

低く、落ち着いたトーンの、心地よい声。
「サ、サンプラザ中野似の素敵なダンディーがおる!!!」と思った。(笑)

それが、今わたしの受け入れ地区の世話役人の、久夫さんとの出会いだった。
直観で、この地区は「人が素敵そうだな」とセンサーが反応した。

けれども、プレゼンテーションだけでは、自分と相性の良い土地がわからなかったため、別会場にて行われる懇親会で、掘り下げることにした。

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「自ら選び、自ら人生をデザインする」ことが都会で欠いてしまうのは、「選ばれる側」に偏ってしまうから。

 

懇親会では、地区ごとの代表の方や、地域おこし協力隊の現役隊員を交えてお酒を酌み交わす。
やっぱり土地との合コンだなあ、なんて思った(笑)

一定の時間が経ったら別テーブルにローテーションし、地区の人たちと、プレゼンテーションの場では伝えきれなかったことを語らい合い、繰り返し全テーブル回ることで、マッチング相手の最終候補を決めるという。

この時既に、飛渡地区か、中里地区にしようと決めていたので、「選ばせて頂く材料」を探させていただいた。

面接では応募者も「仕事相手に選ぶ 」という目線があることを忘れてはならない。

どちらが上で、どちらが下というものではなく、
受け入れる側は、環境、人、賃金を提供し、
地域に入る側は、行動力、実行力、アイディア、労働力の交換をすることが「仕事」。

都会で仕事を「選ぶ」と、人口密度が高いために、「選ばれる」側に回ってしまうことがあまりに多く、「自己決定」が薄らいでしまうのは、「環境」からも起因するのだな、と思った。

だからといって、”都会が悪い”ではなく。あくまでも自分次第。
応募者が、「企業を自分も面接をする」という感覚に鈍感になってしまうのは、「採用して”もらう”」が強いイメージが蔓延ってしまい、企業とのパワーバランスを作り上げてしまった” 自らのイメージ”にある。

今後は、十日町の地域おこし協力隊のような面接のしくみを、企業採用に取り入れたら、相性の良い仕事と人とのつながりが生まれるのではないかな、とも思う。

面接と懇親会のセットで、お互いのミスマッチを防ぐことは大事なんじゃないかって。

スーツ着て、履歴書持って、「採用されるノウハウ」をじっくり読み込んで、「就職活動」するという時代は、とっくに遅れているのかもしれない。

 

移住地選択の判断材料を、「人」にしようと思った。

 

飛渡地区か、中里地区か。

とっても、迷った。

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中里地区の様子

 

中里地区は、川がとてもきれいで、環境も、求められる仕事の内容も、全部が魅力的で、環境や仕事内容で選んだら、「絶対に中里地区」だと思った。
中里の担当の方たちも、穏やか で優しい人ばかりだった。

けれど、飛渡地区がどうしても頭から離れなかったのは、サンプラザ中野似である、久夫さんの人柄に魅力を感じていたからだと思う。

50代以上の方は、生きてきた年数が長い分「自分」が定まり「成熟」した人が多く、良い面では「頼れる」、悪い面では「頑固」という、両面がついてくる。

けれでも、久夫さんの魅力は「やわらかい」だった。

物腰がやわらかくて、目線がフラットで、押し付けがましくない。

よく「定住してね」と言われるけれども、久夫さんは”自由”をとても肯定してくれた。
懇親会の場では、既に定住してる中島さん、多田さん、地域おこし協力隊現役の、ちえみさん、横澤さんが20~30代の枠としていらっしゃってて。

「この雰囲気なら長くやっていけそうだな」と思った。

また、仕事や環境は「自分で創る」ことを目的に来ているのだから、既存にある仕事より、「自分で創る仕事」が楽しみなんじゃないかとも思ったから。

 

ここで、全ての判断材料が揃って、「飛渡地区」を選んだのでした。

 

「自立」と「共存」と手を取り合って、「依存」から線引きができるお手伝いを 

 

既に、「地域おこし協力隊」として任用されてから、2週間ほど経ち、地域の課題や、自分が取り組むべきことも見えてきました。

「こんな何もないところによくきたね・・・」

度々聞く言葉。

 

あぁ、少し寂しい。

地域の方たちがおっしゃる「ある」は一体なんだろうか。

 

目立った観光スポットがあるわけではない。

有名な方がいるわけではない。

今年の飛渡第一小学校の入学式は1人。

 

それでも、自然と生きるこの土地は素晴らしい土地だ。

 

かえるの声、穏やかに土地を見守る田んぼ、溶けきれない雪、桃色を風に飛ばす桜。

夏にはブナが空を目指してまっすぐに伸びながら緑色を彩り、畑の土は作物への母となる。

雲のない一面の闇夜には、人工物だったプラネタリウムが本物となり、人間の心を震わせる。

 

こんなにも「ある」のに、「ない」こと探しの達人になっていくのは、都会でも田舎でも変わらないのだ。

わたしは「ある」こと探しの達人になり、この目で見つけた「ある」を輝かせるサポートをしなければ、と思った。

 

けれどもわたし”だけ”が「ある」もの探しをしても、地域の活性化には取るに足らないもの。

それは、「地域おこし協力隊に、頼ればいい」という考えが根付き、地域の人たちが「自分で考えて、自分で動く」を手放してしまうことになるから。

地域をひらき、地域を創るには、「人」が「個」をもって、「共存」する形でなければ、小さい集落はどんどん消滅していくことと思う。

 

わたしたち地域おこし協力隊の仕事は、

農家の方のお手伝い、おじいちゃんおばあちゃんの手の届かない仕事をして、「ありがとう」をもらうのではなく、

村の方一人一人が、「生きる」を心の底から楽しみ、「自分」を保ち、「助け合う文化のすばらしさ」を継続し、「この土地はにたくさん”ある”んだ」と感じてもらい、人と土地に誇りをもってもらうサポートをすること。

この土地の魅力をブランディングするには、「今」「この土地に住んでいる人」が、「たくさんの”ある”に気づき、しあわせなひと時をたくさん感じること」の土台がなければ、成り立たないのだ。

その結果が、生き生きした人たちに魅力を感じる人、この土地のすばらしさに気づく人が、豊かさを運んで来てくれると思う。

その仕掛け人になるために、わたしはこの土地で、自分という資源を燃やし、「地域の人たち」がありがとう、と言われるしくみ作りをしていきたいと思う。

 

 

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2つの「死」から貰った、あたたかい贈り物。

Nakamura Emiさんの「使命」という曲の3:41が、
10回、20回…と、リフレインする。

あぁ、最近テレビもニュースも全然見ていない。
情報を遮断しないと頭がパンクしそうになる。
脳みそが自分のことだけで手一杯。

テレビの喧騒が、頭を麻痺させるのが嫌だ。
テレビの喧騒で、現実を忘れるのも嫌だ。

乙武さんの不倫騒動も、最近知った。
誰に向けて謝罪するんだろう?
当事者同士でやってくれたらいいはずなのに、ニュースになるのだなぁ。
日本は、そこそこ平和なんだろう。

そんなことをボーッと考えていると、
3:41の「使命」という曲の終盤が再びやってくる。

 

鹿や猿や熊もうろつく小麦色のこの町から
わたしが何を叫ぼうと世界が振り返る訳ないだろう
鹿や猿や熊もうろつく小麦色のこの町から
30代小娘の言葉で振り返る世界なんか駄目だろう

分かっていても心の中
消えないペンで手の甲に書き残す
お前は書けという人がいる
お前は歌えという人がいる

1人怖いのに?
男の人に甘え
家族を作り
ママになり
幸せになりたいのに?
今日も手の甲は何か書いてある

さぁ 歌えよ 沢山の人に出会ったわたしよ
さぁ 歌えよ 死んでいったあの人から貰ったものよ
さぁ 歌えよ その時代の人間が残した美しい心


(Nakamura Emi “song by  使命” )
何回でも泣いてしまう。この曲は。

泥臭いけど、あがいて、強さすらすがることが正解なのか問う、一曲。

自分の才能を信じ切っていいのか、この道でいいのか、葛藤の中で自分の持てる力を今に向ける。

自己投影って、誰かに言うのは恥ずかしいけれど、こんなに心が震えるほど投影する曲は久しぶり。

 

「答えをください」と言っているのに、質問すらしない。

 

答えなんか誰も持っていないのに、
「あなたは答えを持ってますか?」っていうフリップを掲げて
誰かに聞き回りたくなる時がある。

自分が持った能力を信じきりたい気持ちと、
信じきれない葛藤の中、
それでも心から湧いてくるものを、自分の外側に出して。

そんな自分を自分以外の誰かに受け入れてもらうことへの罪にも似たような気持ち。
自分を100%肯定できないのに、「誰かに受け容れてもらう」という事象に、すがりたくなる。

俗に言う承認欲求は、頭の片隅から追いやることはできない。

 

自分に対する答えを用意していないと、わたしはわたしを保てない。
誰かに矢印を、赴くままに放り投げていたら、わたしというアイデンティティーは崩れさってしまう。

自分なりの「生きるとは?」に、それなりの回答は自分で持っている必要があると思った。

 

使命について向き合うことは、恥ずかしいことじゃない

 

わたしはよく、自分の使命ってなんだろう?って考えます。

使命について考えるようになったのは、「死」に2つ触れたことから始まりました。

1つは、その死とともに、わたしが生かされた、19歳のとき。
わたしは死んでもおかしくなかったのに、その死のおかげで今、生きることができている。
この詳細はいずれ書く事として。

もう1つは、「またね」って言ったのに、命を自ら絶った、20歳の仲の良かった女の子。

彼女は境界性人格障害と、躁鬱病を抱えていた。

病気の相談もよく受けていたし、自殺未遂をした後に、わたしに連絡をよくくれた。

「死ねなかった」って。

彼女のその行動をわたしはずっと無理に止めずに見守ってきた。

病気に対して、勉強したりもした。

彼女のお父さんからも相談を受けて、「どうしたらよいか」と話し合ったこともある。

けれども、彼女はついに「死ねてしまった」。

翌週に会う予定だったのに。

20歳そこらで、どうしてこんなに死と向き合わなければならないんだろうって当時は思った。
まわりを見渡せば、遊びに夢中になっている学生たち。

「お葬式?散骨?告別式?そんなこといいから、飲んで忘れちまおうぜ」

いけるものなら、そっちの世界に、行きたかった。
飲んで、忘れて、記憶を失うまで飲んでいたかった。

「ここに2つの命はない」という事実だけが残って。
それでも「今ここにあるものがすべて」という事実があって。

この世界は、事実だけが残されて、心がついていけなくなる時もある。

 

生まれた意味をつけてあげられるのは、わたしが生きること。

 

2つの死に向き合えるような器ではなかった当時、
「今」という時間が苦しかったから、
常に「未来」へバトンを渡すことを望んでいた。

いつまでもその時は、やってこなかったけれど。

2人が生まれた意味を、わたしがみつけたいと本気で思えたのは、
移住を決めて「覚悟」という言葉の意味が少しずつ腑に落ちだしたからなのかもしれない。

彼らの死んだ意味を探すんじゃなくて、彼らが生まれた意味が
わたしが生きることにイコールするのではないかなぁ、と思ったから。

わたしたちはこの地球で、思考を持つことを与えられて、
「今」を積み重ねることだけは平等に与えられる。

前々から思ってきたけれど、必ず死んでいくのに、「自分という素材を抑えて生きる人」があまりに多いなぁ。と思う。

その一部として、弱っている自分を、痛いほどに感じて。

(そう、まさに今です。わたしです。)

 

ちょっとだけカラい文章で、わたしに味付け

 

今日は少しだけ心の奥を突っついてみる文章を書いてみようと、ヘビーな内容ですが、「わたしだから書ける」という言葉への挑戦も込めて書き残しています。

言葉の1番の贈り主は、臆病で不安に駆られている「自分」に向けて。

なんだか、周りの子を見渡すと「本気になるのがかっこわるい」という風潮があるように感じて、わたしはどちらかというと、物事の根っこを考えるのが、マニアックなほどに大好き。(気持ち悪がられます)

なので、真剣な内容をどこか茶化して、はぐらかして、たまに「真剣さ」を出せば、「病んでるの?」なんて声も聞こえたこともある。

物事や、自分に向き合う作業って客観的に見たら、物凄く「青臭いもの」と感じてしまうし、「こそばゆい」想いが根付くのは致し方ないことと思う。

けれど、そこをひとつ越えると清々しいし、かっこいい。

自分の内面と向き合うことは、全然かっこわるいことじゃなくて。

アウトプットしたら、誰かの悩みの手助けになったりもする。

知恵の輪を解く作業をみんなでやるのは、楽しいことだと思う。

 

「死」というゴールからの、あたたかい贈り物

 

命を使う。使命。

よく何の為に生きるのかという哲学のテーマが蔓延っているけれど、
「死ぬ」ことの方に向かって考えた方がよっぽど有意義な気がする。

「恥ずかしいから、本当のわたしは出さないんだ」
なんて、言ってる場合じゃない気がしてくる。

時間軸のゴールは、みんな一緒で、「死」。

何秒、何分、何年とか、個々に違うリミットがあるのは誰もがわかってる。
わかっていても、それを意識して、生きている人ってどれほどなのだろう。

「死んでいくこと」を目の前に感じると、終わりを身近に感じられる。

なんだかそれは、とってもあったかい贈り物のような気がして、
「あなたを使い切るための希望だよ」って、教えられた気がした。

「終わる」ってそういうことだよなあって。

今は、2人がいなくなってしまったことも、「わたしという素材を燃やす起爆剤」だとわたしは勝手に捉えている。

 

「今」というコップが穴だらけな時の、総点検

 

誰かが作った「成功の道」を目指して、追い求めて、老いていく人もいる。
誰かが作った「お金」という循環に奔走して、老いていく人もいる。

彼らが死ぬ時に「よい人生だった」と一言あれば、
そのことに誰かが意味をつけることは、無駄以外のなにものでもなくて。

人の生き様が目について、黒い感情が生まれるときは、
「今」というコップが穴だらけなのだと気づく。

嫉妬とか焦りは「今に穴空いてますよ!」というサインなのは重々承知だけれど、壁についた黒いシミをずっと見ているような、一秒一秒を感じる集中も難しい。

けれど、終わりが希望ということは、今抱えている悩みはとてもちっぽけなものだと、笑える気もしてくる。

コテン、と逝ってしまうその時に、今が笑い話になるような工夫をしていきたいと思う。

今はそんな、総点検の時期だったのかもしれない。

ひとつ、ひとつを文字にすることで、弱っていた自分を客観的に見ることができたら、気持ちがとても落ち着いてきた。

 

「覚悟」がつきまとうから、「移住」のハードルが高い 〜中山間地〜

 

散々哲学的な内容を綴ったけれど、気が済んでしまいましたので、この辺にしておいて(笑)
大幅な方向転換させてください(笑)
気分がコロコロ変わるのです。人間だもの。

現時点で移住におけるさまざまな課題をポイントとして分かり始めました。
また、地域おこしをするにあたって、中山間地に移住者を増やすのは、想定していたことより複雑なことが多いと既に実感しています。

「あぁ、これは、生半可な気持ちじゃ地域おこしできないわ」って。

イベントやって、都会との交流、満足満足〜。っていう、そういうレベルではないなって。

そう、それは、わたしが既に弱っているから。
移住者の一人として。
これが中山間地への移住に対する「覚悟」かも、っていうのが芽生えてきたから。最初は「おためし移住」に近い感覚だったのに。

けれど、これから移住する人に対して「覚悟」っていうハードルを下げるのが、これからのわたしの仕事。

「覚悟」を持たなくても、移住してもらえるような地域にしていく準備が必要なんだと思った。

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新 ほんまHOUSE

 

そうそう、田舎の醍醐味は「手間」でもありますから、一見デメリットなことを魅力に変える力をつけたいと思っています。

 

とりとめもなく長くなってしまいましたが、先日引越しを完了しまして、一旦千葉に戻ったものの、今日から新潟県十日町市の宇田ヶ沢村の集落にて移住生活が始まります。
そして、飛渡地区の地域おこし協力隊として、4月1日から任用されます。

移住ライフから、生き方から、日々思うことまで、今後も徒然と日々を綴っていきます。

肩書きは「もらうもの」ではなく、「自分で作る」ことを当たり前に。

3月4日、千葉県鎌ヶ谷にてお昼から始まった講義。

 

「好きを仕事にするためのセルフブランディング術」

 

講義者はそう、かさこさん。
知る人ぞ知るというよりは、だいたいみんな知っているかさこさん。

 

カサゴ?

 

いえ、魚ではなく、かさこさん。

 

 

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先日、41歳の誕生日を迎えたかさこさんは、現在カメライターという肩書きを持ち、旅先での写真撮影、ライティングを仕事にし、「好きを仕事にする」ことを自らが立証されており、仕事だけではなく、奥さんやお子さんとの時間も大切にしてらっしゃる姿には最早学ぶことだらけで吸収が追いつかない。

この時ばかりは、「わたしはスポンジになりたい」という文節が浮かんだ。

 

「好きなことなんか仕事にできるわけがない」を「信じきれなかった」ことから始まる

 

今でこそ「説得力100%」の言葉を自由自在に操っているかさこさんも陰りがあった。

 

就職氷河期時代に就職をすることとなったかさこさんは、「現実は甘くない」という大人たちの常套文句に首を縦に振るしかなかったような出来事として、内定がサラ金一社のみという結果だったそう。

そうしてサラ金としての融資マンを経験していくうちに、「好きなことなんか仕事にできるわけがない」という芽がグングン育つが、その花は幸いにも咲くことはなかった。

 

「でもやっぱり好きなことをしたい」という影がいたから。

 

いや、光だったのかもしれない。

 

そんな光なのか影なのか信じることができないもどかしさを抱えつつ、旅と写真が好きだったかさこさんは「好きなことをブログで毎日発信し続ける」を16年間やり続けた。

 

ブログ更新を毎日し続けたことで、「何を好きで」「何をやってる人で」「何が得意なのか」がブログを通して誰にでもわかるようになり、「かさこさんの好きなことに価値」を見出した企業から、ブログを通して仕事の依頼が来るようになった。

 

その後、本を出版したり、原発をテーマにした映画監督をしたり、サラ金時代には考えられないようなお仕事をするまでに。

 

また、去年の年収は2300万程で、「仕事をやりすぎてしまった。もっと自分の時間を大事にしたい」とかっこいいことを言っている。

 

そう、それはお金に執着しすぎてない証拠。

 

お金に執着していないことが、パフォーマンスを生み、「お金に振り回されない、本心からくる実直さ」を大切にでき、それがかさこさんの最大の魅力なのではないかと思う。

 

「質より量」と「量より質」論争を見直すきっかけ

 

かさこさんは「ブログを毎日更新する」ということに対して自信を持ってこう豪語する。

 

「100%の記事を週に1回より、60%の記事を毎日の方が、”毎日更新しているならたまにチェックしよう”というファンが増やせる」というのだ。

 

痛い…。

 

ほっぺたをつねられたような言葉だった。

 

わたしは100%の記事をゆっくりでも出したいという想いが強く、毎日更新する方がいいとわかっていながら「質のいい記事を書くため」と言い訳していることに気づいた。

 

ただ、この論争は「毎日更新」が自分の中で「負担」になってしまったら、別物になっていく気がするので、量より質の観念から、質より量に「少しずつ」でもシフトしていくやり方でいきたいなあ、と思う。

 

「今」を楽しむ過程をおざなりにしていくことは「本末転倒」だから、あくまでも自分なりのやり方で、心の心地よいラインを感じながら、やっていきたい。

 

パラレルキャリアとセルフブランディングで仕事をもらう仕組みを

 

絵を描くことが好き。

 

歌うことが好き。

 

旅行が好き。

 

食べることが好き。

 

誰しもが、何かしら好きなものが「ボヤッ」とある。
その「ボヤッ」がない人はいないと、わたしは思っている。

 

好きなことって、わかりやすいようなカッチリしたようなものが、「好きなこと」というカテゴライズにされがちだけど、「耳かきが気持ちいい」くらいでも「好きなこと」だと思う。

 

かさこさんは「ボヤッ」でも「くだらないこと」でも、突き詰めると、自分だけが楽しむ「趣味」から、「誰かのため」にすることができるのだと、自分の実績や、他人の実績から根拠を述べている。

だけども、いきなり「好きなことだけ」しても「誰かの価値提供」に繋げることに、成果がついてくるかというと難しい面が多々出てくる。

 

そこで、かさこさんがオススメしているのは「パラレルキャリア」。

 

好きな事以外の他の収入源を保ちつつ、「好きなことの割合」を少しずつ増やし、「ブログで発信」も加えるという、自分の考えや行動を少しでも誰かに伝えて、時間をかけてでもセルフブランディングしようよ、ということ。

 

わたしも「地域おこし協力隊」でお給料を頂きつつ、好きな土地への貢献、好きなことのライティング、好きな歌を歌うこと、花を使った作品の販売などをしていくべく、好きなことの割合を圧倒的に増やす準備を整えたところ。

 

自分の性質上、一点集中で何かに取り組むより、好きなことのいくつかの「点」を固めながら「線」にしていくやり方で「好きを仕事に」したいと思っている。

 

その手段がブログであり、地域おこし協力隊であり、移住でありたい。

 

今はこの「点」だらけの状況に少しばかり心細さを感じながらも、「線」になって繋がるということを信じて、日々生きている。

 

「これがやりたい!」に素直になるたびに、自分が自分を好きになれる。

 

ローカルな地方で活動する分、焦らず自分らしくできるというフィールドをわたしは選んだ。

一緒に励まし合う仲間が増えて、気づいたら何人も応援してくれるひとがいて。

住む土地を変えて、自分の考えを発信することで、こんなに自分って変わるんだ、と驚く日々。

その点、東京での「仕事の選び方」にはレールがいくつも敷かれていて、脱線すると悲しいかな、いろんな好奇な目で見られることになる。

 

非正規雇用者は負け犬だとか、正規雇用者は将来安定だから就職活動は絶対だとか、就職したら我慢してでも3年は勤めるだとか、誰が決めたのかわからない「常識」に心がすり減る時がある。

 

その「常識」は、国境を越えた時の「常識が非常識に変わる感覚」のような、取るに足らない感覚だったのかもしれない。

 

わたしは高校を卒業してから脱線したり、レールにハマったりの繰り返しだったけれど、人生の見本のレールにフィットする人はフィットするし、フィットしない人はフィットしないなあ、とようやくそのことを素直に理解することができるようになった。

 

ただ、それだけのことだった。

 

フィットしないものをわたしはなんとかフィットするように空回り続けて、ハムスターのガラガラのように走り続けた。

 

そんな空回り期間もいい意味で経験にできたし、「わたしには見本とされるレールが合わなかっただけ」に素直になることができた。

 

この気持ちに素直になれるかなれないかということが「好きなことを仕事にする」の分かれ道なのではないかなあ、なんて思う。

 

肩書きは「もらうもの」ではなく、「自分で作る」ことを当たり前に。

 

地方には「脱線」が「面白い」と受け入れられる体制が徐々に広がっている。
東京では活躍できなかった人が地方に来ることでキラキラになる人が増えているとわたしは実感している。

 

そして「自分で自分に肩書きをつけた人」はとても芯が通っていて、尊敬できる人が多いことに気づく。

 

十日町じゃなくても、「移住」を手段として「好きを仕事に」する人が増えたらいいなあということを漠然と今は思っている。

 

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写真は勝手に考えたキャッチコピー。

 

「好きを仕事にする人」が十日町に来たら嬉しいなあ、なんて。

 

地域おこし協力隊がこんなこというのも変だけど、最終的には十日町じゃなくていいから「自分に合うものを選び、自分の好きな土地を選ぶ」ということであればなんでも良いなあ、と思う。

 

選ぶということは捨てること。
捨てることは気持ちがいいこと。
不要なものをそぎ落とす手段をひとりでも多くの人が気づけるように。

 

そうなってほしいな。いや、そうするべく勉強しながら人の力も借りていこう。

 

そして自分が「好きを仕事に」なる過程を記していこう。

 

すでに、地域おこし協力隊の仕事は内定を頂いておりますが、あくまでも独立するための準備期間。

最長でも3年だからこそ、その期間でいかに地域に貢献し、人と繋がり、自分自身を確立できるか試したい。

 

またひとつ、自分の想いが「メキッ」と成長する音をかさこさんの講義を通して再確認できた。
きょうという24時間にも、「好き」を1分でも多く感じれるように。