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「恋愛」「結婚」を”ふつう”なことだと語らわないことが”ふつう”になってから、「固定コミュニティー」が苦手になった話。

わたしはどこかに遊びにいったり、旅行にいくと大抵、怖くなる。

それは、高校生から今に至るまでずっと。

 

 

「逃避としての旅行なのか?」

「日常を惰性として感じたくないからなのか?」

 

なんて、小難しいことをいつも考えてしまうから。

基本的にはインドアが好きだから、アウトドアな人たちを見ると一歩構えたりする。

 

観光スポット、おいしい食べ物やさんが立ち並ぶスポットにいくことが、

「若者としての遊び」という、概念が自分の中に存在していて。

 

わたしはその「若者としての遊び」が苦手だった。

それは「固定のコミュニティー」が怖かったからなんだと思った。

 

「上司に守られる」ということ

 

仕事が終わってからも(いわゆる定時というやつ)

仕事のこと、暮らしのこと、これからの自分の生き方、

何を伝えるか、何を活かすか、どうしたら良いのか。

四六時中考えて、仕事の締め切りをオーバーして、怒られる。

わたしは自分で自分のキャパをまだ分かっていないのでそんなことがよくある。

 

ちょっと時間を作れば、

締め切りをオーバーすることはないはずなのに。

 

仕事の締め切りをオーバーするということは、

「求められているいるけど、自分の中で優先順位が低いもの」

として、勝手にカテゴライズしてしまっているから。

 

わたしに実害はないけれど、協力隊に「上司」は存在し、

その方々が何かしら頭を下げていることになる。

(いつもご迷惑をおかけしております)

 

「上司」に守られていると、「時間概念」「お金の循環」などの意識が薄れていく。

以前勤めていた会社ではそれらに対する「危機感」がいつもあった。

 

「守られる」というのは、あたたかい言葉なのかもしれないけれど、

「自分のケツは自分で拭け」なんて言葉がある通り、

「自分で考えて自分で動く」というプロセスを、省いてしまう。

 

おせっかい上司と、放置型上司、どちらが「良い」?

 

「上司」という立場は、部下に「依存」させると、

「能動クラッシャー」になりうる。

 

たくさん失敗させて、たくさん「どうすればいいのか?」を与える。

「こうしたらいいよ」と、細かくアドバイスされることが

「良い」と思われがちだけれど、

細部にわたってアドバイスするということは、

「上司」自身の保身のためか、

「部下」に失敗させないためものなのか。

 

いずれにしても「こうしたらいいのかも?」という

「自分の考え」がちょんぎられていることに気づかないのは、

果たして本当に「良い」と呼べるのか。

 

幸いにも、以前勤めていた会社の上司は、

わたしにたくさんの失敗をプレゼントしてくださった。

 

「なんで、この案件を振るくせに、”どうすればいいのか”を教えてくれないの?」

と、いつも思っていた。22歳くらいのとき。

 

20歳のときに「金融」という未知の分野に小娘(わたし)が入り、

「会社」というジャングルに放たれて、試行錯誤する日々だった。

わたしが自発的に仕事をするようになってから、

「知識」を補うより、

「仕事のやり方」を意識するようになった。

 

「やり方」だけは、誰も教えてくれない。

 

 

「知識」は勉強すれば学べるものだけれど、

「やり方」だけは、「経験」からしか学べない。

 

わたしの前上司は、「能動促進」の番長だったのではないかとも思う。

ただし、その分、「能動的ではない部下」かからは煙たがられていたけれど。

 

「上司は嫌われてナンボ」なんて偉そうに語る人もいたけれど、

「本当の意味で”成長”を促しているからこそ嫌われる」と説明できる大人は、

一体どれほどだったのだろうか。

 

今、あらゆるモノごとに、「本質は一体なんだろう?」と問いかけられる成長をくれたのは、

前職にすばらしい上司に巡り会えたから。

 

話が脱線してしまったけれど、

そんな「本質を探る」ということを意識するたびに、

「消費」して終わるという日常がとても怖くなっていった。

 

彼氏や、旦那が大切なのは良いことだけれど・・・

 

この歳になると、「恋愛」や「結婚」の話が飛び交ってくる。

それはそれでもちろん良い。

 

「恋愛」について語らうと、

「彼氏」の愚痴や、「結婚」はいつになるのかとか、

誰々が別れたとか、誰々が同級生同士で付き合うとか

そんな話もまあまあ面白いけれど、

「もっと他に話したいことはないのかな?」とか思ったりする。

 

その人の「わたしはこうしたい」という話が聞きたい。

もちろんたまには、愚痴ったりしたっていい。

 

「結婚」だってそう。

「旦那」の愚痴や、「子供」ができないとか、

誰々ちゃんの噂話とか、他人の話ばかりに偏ってしまう。

 

それは、「固定コミュニティー」に浸かっていると、

”ふつう”の立ち位置に自分が属してる安心感があるからなんだと思う。

 

わたしはむしろ「固定コミュニティー」の方が苦手だ。

なぜなら、人は変化していくものだから。

 

”ふつう”なんて変化して当たり前で、

「ずっと仲良し」なんて言っている方が違和感がある。

 

今でこそ、そんなことを言えるようになったけれど

違和感に従って、関東の「固定コミュニティー」からはずれた当時、

疎外感がなかったとは言い切れない。

 

少しばかりさみしさはあったけれど、

「違和感のあるコミュニティー」から脱出すると、

「求めているコミュニティー」と勝手にマッチングする。

 

そして、「コミニティー」とは

自立した人の集まりに「名前」がついた仮称であってほしい。

 

言うなればいつ解散してもよいし、

集まらなくてもよいという程よい「集い」が、

人の「選択」を促すものとなるのではないかと思っている。

 

その集団がいないと、自分の足で立てないほど入り浸っていたら、

宗教に近くなってしまう。

 

なんてことを考えているわたしは、ふらふらした旅人の方が合っているのかもしれないな。

けれど旅行が苦手なのは、「日常」を「否定」している気がするからなのかもしれないな。

 

そんな感じのお年頃です。

これからブログをもっと書けるように、さらっと書きたい今日この頃です。

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